魏書卷五十二 列傳第四十 宋繇
宋繇
宋繇、字は体業、敦煌の人。曽祖の宋配・祖の宋悌は代々張軌の子孫に仕え、父の宋僚は張玄靚の龍驤将軍・武興太守。繇の生まれた頃、僚は張邕に誅された。5歳で母を喪い伯母の張氏に事えて孝を聞こえ、8歳で張氏も卒し喪に居ること礼を過ぎた。繇は若くして志尚があり喟然として妹の夫張彦に「門戸は傾覆し負荷は私にある、胆を嘗めて自ら励まなければどうして先業を継承できようか」と語り、彦に随い酒泉に至って師に就いて学び室を閉じて誦書し昼夜怠らず、経史・諸子・群言に博く通じた。呂光の時、秀才に挙げられ郎中を除せられ、後に叚業のもとに奔ると業は繇を中散常侍とした。繇は業に経済遠略なきをもって西の李暠のもとに奔り、位を歴て通顕したが家に余財なく雅く儒学を好み、兵難の間にあっても講誦を廃さず、儒士が門にいると聞けば倒屣して出迎え政事を停めて経籍を談じ、しかも時事の決断も明断で滞りなかった。沮渠蒙遜が酒泉を平定した際、繇の室から得たのは書数千巻と塩米数十斛のみで、蒙遜は「私は李歆を克ったことを喜ばず、宋繇を得たことを喜ぶのみだ」と嘆じ、尚書吏部郎中を拝し銓衡の任を委ねた。蒙遜が没する際、子の牧犍を繇に委託した。牧犍は繇を左丞とし、その妹興平公主を京師に送る際に随わせ、世祖は繇を河西王右丞相に拝し清水公に叙爵、安遠将軍を加えた。世祖が涼州を并せると牧犍に従って京師に至り卒し、諡は恭。長子の巖が爵を襲ぎ西平侯に改められた。巖の子の蔭は中書議郎・楽安王範の従事中郎で卒し輔国将軍・咸陽太守を追贈された。子の超は尚書度支郎。超の弟の稚(字季預)は安邑の李紹伯に師事し諸経伝を受け、性は清厳で家を治めること官府のごとくであった。太和中(480年代)司徒属を拝しまた例により降格され西中府戸曹参軍に除せられ并州城陽王鸞の城局参軍に転じ、景明2年(501年)白水縣令を拝し在県11年で民和を得て青州渤海太守に遷り正光3年(522年)卒した。子の遊道は武定末、太尉長史。