魏書卷五十二 列傳第四十 宗欽
宗欽
宗欽、字は景若、金城の人。父の宗夑(字文友)は呂光の太常卿。欽は若くして好学、儒者の風があり群言に博く通じ声は河右に著れた。沮渠蒙遜に仕えて中書郎・世子洗馬となり、東宮侍臣箴を上って生民の道・君臣の理・古今の興亡を論じ、儲后(太子)が虚衿遠属して幽荒を外に撫し焭独を内に懐き、諍臣を置き謗木を立てるべきことを説いた。世祖が涼州を平定し入国すると臥樹男に叙爵し鷹揚将軍を加えられ著作郎を拝した。欽は髙允に書を送り「昔は皇綱が振わず華裔の風は殊なり、九服は分隔して金蘭の契りも遂げ難かった、心に懐き寄せる想いを久しく望んでいたが天がその願いを遂げさせ京師で相会うことができた、才は季札に及ばぬが眷は孫喬のように深く、徳は程子に乖くが義は等しく傾盖した、めったに遇えぬ機会を得たと思う間もなく公私の理は異なり訓諮の路は塞がり端拱して蓬宇を歎慨するばかり、鄙拙を顧みず詩数韻を貢ぐ」と述べ、詩十三章を贈った(内容は湛の族の高門・才徳を讃え、自らの西藩での在り方や再会の喜びを述べるもので、大意は割愛する)。允はこれに答え「頃者、使者の往来により足下の高問を承け、延佇の労は日を経ること久しかった、王途が開けてようやくその懐いを叙べることができ相遇の喜びは尽きない、足下は兼愛の心で常に顧養し風味を存し徳音を恵んでくれた、私は少より尋常の操しかなく老成の致もないが賢勝に憑頼して自ら克め励んできた、来喩の褒飾は分を過ぎているが、雅贈を承けた以上は応答せねばならない、ただ唱が高ければ和し難く理が深ければ酬い難いため今日まで留連した、今詩一篇を送るが明旨を標すには足らず、心をもって幸いにその鄙滞を恕し至意を領せられたい」と述べ、同じく十三章の詩で応じた(欽の郢城の名族出自、西藩での功、才徳への謙譲と敬意、古の賢人への比較、再会の喜びと友誼を歌うもので、内容は割愛する)。崔浩の誅殺に際し欽もまた賜死された。欽は河西にいた頃『蒙遜記』十巻を撰したが取り立てて称すべきものはない。弟の宗舒(字景太)は蒙遜の庫部郎中で兄と共に帰国し句町男に叙爵、威遠将軍を加えられたが名声は兄に及ばず子孫はみな衰替した。