魏書卷五十二 列傳第四十 叚承根

叚承根

叚承根、武威姑臧の人、自ら漢の太尉叚熲の九世孫と称した。父の叚暉(字長祚)は身長八尺余、欧陽湯に師事しその器愛を受けた。ある童子が暉と同志であったが二年後に辞去する際、暉に馬を求め、暉は戯れに木馬を作って与えると童子は大いに悦び「私は太山府君の子で勅を奉じて遊学していたが今帰ろうとしている、厚い贈り物への報徳はできぬが、あなたは後に常伯に位し侯に封ぜられよう、それが報いだ」と告げ、遂に木馬に乗って空へ騰り去った。暉はこれで自らが必ず貴くなると知った。乞伏熾磐は暉を輔国大将軍・涼州刺史・御史大夫・西海侯とし、磐の子暮末が位を襲ぐと国政が衰乱し暉父子は吐谷渾に奔り、暮璝が内附すると暉は承根と共に帰国、世祖はもとよりその名を聞いており重んじ上客とした。後に暉が世祖に従い長安に至った際、暉が南奔しようとしていると告げる者があり、世祖が「何をもってそれを知るのか」と問うと、告げた者は「暉は金を馬韉の中に置いている、逃走する気がなければどうしてそんなことをするだろうか」と答え、世祖は密かに人を遣わして見させると告げた者の言葉通りだったため市で斬り数日尸を曝した。当時、儒生の京兆林白奴は暉の徳音を欽んでおり夜にひそかにその尸を盗み枯井に置いた。暉の娘は敦煌張氏に嫁いでいたが久しくしてこれを聞き長安に赴いて収葬した。承根は好学で機弁があり文思に富んだが性行は疎薄で始めあって終わりなかった。司徒崔浩はこれを見て奇とし著述に堪える才として世祖に言上し著作郎に召され浩と共に事に与った。世は皆その文を重んじその行を薄んじた。承根は敦煌公李寳に厚く敬待され、寳に詩を贈った(世道の衰陵と真の宰相を待望する思い、魏の文治興隆と自らの登用への恩、凉州の乱離からの帰国、旧知への感謝と共に治世を輔けたい志を歌う七章、内容は割愛する)。浩が誅されると承根も宗欽らと共に死んだ。承根の外孫の長水校尉南陽張令言は美しい鬚髯を持ち言談挙止に武人らしからぬところがあり、李琰之・李神儁ら当時の名士にみな美とされた。