魏書卷四十五 列傳第三十三 裴駿

裴駿(字神駒、小名皮、河東聞喜の人、?-468年)は蓋吳の乱に際し郷豪を率いて聞県を守り抜いた功により、世祖の引見を受けて中書博士に抜擢された。崔浩に「三河の領袖」と称され重んじられた。

年表(1件)
  • 皇興2年468年卒去。平南将軍・秦州刺史・聞喜侯を追贈され諡は康

裴駿

  • 裴駿、字は神駒。小名は皮。河東聞喜の人。父の雙碩は本縣令で仮建威將軍・恒農太守・安邑子を除せられ卒し平南將軍・東雍州刺史・聞喜侯を贈られた。駿は幼くして聡慧で親表にこれを異とされ神駒と称され字とした。弱冠にして経史に通渉し文を能くし性格は方検で礼度あり鄉里はこれを宗敬した。蓋吳が関中で乱を起こすと汾隂の人薛永宗がこれに応じて衆を聚め諸縣を屡々残破し聞縣を襲おうとしたが、県中には元より兵仗がなく人情は駭動し縣令は憂惶し計を出しあぐねていた。駿は家にあってこれを聞き鄉豪を率厲して「礼に君父の危あれば臣子は命を致すというもの、府縣は今賊に逼られている、これは吾らが節に徇う時である、諸君も勉めないでよいものか」と述べ、諸豪はみな奮激して行きたいと請い、駿は簡んで騎の驍勇な者数百人を奔らせ賊を迎え撃つと、賊は救援が至ると聞いて兵を退き走った。刺史はこれを嘉し状を表聞した。折しも世祖が親ら蓋吳を討った際、駿を引見しその事宜を陳敘するのに甚だ機理に会い世祖は大いに悦び崔浩を顧みて「裴駿には当世の才具がある、忠義もまた嘉すべきである」と述べ、中書博士に補された。浩もまた深く駿を器とし三河領袖と目し、中書侍郎に転じた。劉駿が使者明僧暠に朝貢させた際、駿に才学があることから假給事中・散騎常侍として境上で労接させ、皇興二年(468年)卒し平南將軍・秦州刺史・聞喜侯を贈られ諡を康とした。

駿の子・修

  • 修、字は元寄。清辯で学を好み年十三で中書学生に補せられ祕書中散に遷り主客令に転じ、婦の父李訢の事件により張掖子都大将として出された。張掖は胡夷の境に接し前後しばしば寇掠を受けたが、修は明らかに烽候を設け方略で禦ぎ辺にあること六年、関塞は清静を保った。高祖はこれを嘉し中部令に徴し中大夫を兼ね祠部曹事を兼ねさせ、職として礼楽を主り疑議あるたび修は故実を斟酌して条貫あった。太和十六年(492年)卒し時に年五十一、高祖はこれを悼惜し帛一百匹を賻し諡を恭伯とした。世宗の時、輔國將軍・東秦州刺史を追贈された。修は早くに孤児となり喪に居て孝を以て聞こえ、二弟三妹はみな幼弱にあり撫養訓誨は甚だ義方あった。次弟の務が早くに喪すると修はこれを哀傷し孤姪を愛育すること己が子のようであり、異居に際して奴婢・田宅をことごとくこれに推与し時人はこれを称した。

修の子・詢

  • 詢、字は敬叔。美しい儀貌で多藝多能、音律・博奕までみな開解した。起家して奉朝請・太尉集曹參軍となり長流尚書起部郎中・平昌太守に転じた。太原長公主が寡居する中で詢と私姦し肅宗はなお詢に尚せる詔を出し、まもなく主壻として特に散騎常侍を除せられた。時に本邑中正が闕けており司徒は詢をこれに召したが、詢の族叔の昞が自らこの官を願い出たため詢は遂に譲り時論はこれを善しとした。まもなく起居事を監し祕書監に遷り出でて平南將軍・郢州刺史となった。詢は凡そ司る戍の蠻酋田朴特が地の要険に居し衆は数萬に踰え辺捍に足りると考え朴特を西郢州刺史に表し朝議はこれを許した。蕭衍が将李國興を遣わして辺を寇した際、四方多事で朝廷は外略に遑がなく境城の戍は多く國興に陷とされ、賊は勝ちに乗じて州城に向かったが、詢は率厲固守すること将に百日、援軍が至ると賊は退走した。散騎常侍・安南將軍を加え、朴特は國興の来寇に際し詢と掎角して表裏の声援を為し郢州は全きを獲、朴特も頗る力あった。七兵尚書に徴され都に至るとまもなく豫州刺史を除せられ、まもなく撫軍將軍に進号し散騎常侍を加えられたが州に赴かず還って七兵尚書となり常侍如故のまま、武泰初年、詔により詢は本官のまま侍中を兼ね関右大使として慕義の徒を賞擢することになり未だ発せぬうちに尒朱榮が洛に入り河陰で遇害された。年五十一、侍中・車騎大將軍・司空公・雍州刺史を贈られ諡を貞烈とした。子はなかった。

修の弟・務

  • 務、字は陽仁。少くして聡慧で秀才に挙げられ州の主簿に辟されたが早くに卒した。

務の子・美

  • 美、字は師伯。少くして美名あり秀才に挙げられ州主簿となり太尉咸陽王雅はこれを賞愛し女を妻に与えようとしたが美は拒んで納れず、奉朝請を除せられたがまた早くに卒した。子はなかった。

務の弟・宣

  • 宣、字は叔令。通辯博物で早くに聲誉あり少くして孤児となり母兄に事えて孝友をもって称され、秀才に挙げられ都に至って司空李訢と語り朝から夕まで及ぶと訢は嗟嘆してやまなかった。司空李沖には人倫の鑒識があり見てこれを重んじ、高祖初年、尚書主客郎に徴され蕭賾の使者顔幼明・劉思效・蕭琛・范雲らと対接し、都官郎に転じ員外散騎侍郎を経て(旧令では吏部郎と同班であった一句が闕けている)。高祖は沙門を集めて仏経を講じさせた際、宣に論難を命じ甚だ理あり高祖は善しとした。洛陽への遷都に際し宣を採材副將とし奉使は称旨で遙かに司空諮議參軍を除せられ、府が解けると司州治中に転じ司徒右長史を兼ね別駕に転じなお長史を仍ねた。宣は明敏で器幹あり州府の事を総攝して滞りなく遠近はこれを称した。世宗初年、太中大夫を除せられ夲郡中正を領しまた別駕となり司州都督となり太尉長史に遷った。宣は「遷都以来、凡そ戰陳の処や軍が罷った道で骸骼を覆藏する人のいない所は州郡戍邏に検行し埋掩を符すべきです、また戎役で死んだ家には招魂復魄・祔祭先靈を行わせその年の租調を免じ、傷痍を被った身の者は兵役を免じてください」と上言し朝廷はこれに従った。出でて征虜將軍・益州刺史となり羌戎の心をよく得た。後に晉壽が改めて益州を置き宣が莅した所を南秦州に改めた。先に陰平の氐酋楊孟孫が数萬戸を擁して自ら王を立て蕭衍に通引しばしば辺患をなしていたが、宣は使者を遣わして招喩し逆順をもって曉すと孟孫は感恩しすぐに子を闕に詣でさせ、武興の氐姜謨ら千余人も上書して延期を乞い世宗はこれを嘉した。宣の家は代々儒学を業とし常に廉退を慕い「賈誼の才で漢文の世に仕えても公卿に至らなかったのはあるいは運ではなかろうか」と歎じ、親賓に「私はもとより閭閻の士、当世の志はなくただ牒に随って推移してここに至った、禄で親を養う道は光国に至らず、瞻言往哲はここに帰るべきだろう」と語り、解官を表求したが世宗は許さず、懐田賦を作って心を叙べた。永平四年(511年)患い篤くなると世宗は太醫令を馳駅させ視させ御藥を賜った。宣は陰陽の書に明るく患い始めた頃から自ら起きられないことを知り自ら死の日を剋み果たしてその言の通りとなった。時に年五十八、世宗はこれを悼惜し左將軍・豫州刺史を贈り諡を定とし、まもなく穆に改められた。子の敬憲・莊伯はともに文苑傳にある。

宣の第四子・獻伯

  • 獻伯、武定末に廷尉卿となった。

駿の従弟・安祖

  • 安祖、少くして聡慧で年八九歳の頃、師について詩を学び&KR0951;鳴篇に至ると諸兄に「鹿は禽獣ですら食を得れば相い呼ぶ、まして人であればなおさらだ」と語り、これより後は独り食すことがなかった。弱冠にして州に主薄として辟され、民の兄弟が財を争い州に訴えた際、安祖はその兄弟を礼義をもって責め諭すと、翌日兄弟は相い率いて謝罪し内外はこれに欽服した。人が仕官を勧めても安祖は「高尚の事は敢えて望むところではありません、京師は遼遠で栖屑を憚るのみです」と述べ閑居して志を養い城邑を出なかった。安祖がかつて暑中に外出し樹下に舎した折、鷙鳥が雉を逐い雉は急いで安祖に投じてきて樹に触れて死んだが、安祖はこれを愍み陰地に置いて徐々に護視し良久しくして蘇り安祖は喜んでこれを放った。後夜、忽ち一人の丈夫が衣冠甚だ偉く繡衣曲領を著て安祖に再拝する夢を見、安祖が怪しんで問うと「君が前日、放してくれたことに感じて謝徳に来た」と答え、聞く者はこれを異とした。後に高祖が長安に幸し河東に至り故老を存訪した際、安祖は蒲坂に朝し高祖はこれと語って甚だ悦び安邑令を拝したが、安祖は老病により固辞し詔により一時の俸を給し湯薬に供させた。年八十三、家で卒した。

安祖の子・思濟

  • 思濟、また志操あり早くに卒した。

思濟の子・宗賢

思濟の弟・幼儁

  • 幼儁、猗氏令で卒した。