唐和
- 唐和、字は稚起。晉昌宜安の人。父の繇は涼土喪乱の中で民の帰する所ないのを見て隴西の李暠を敦煌に推して一州を寧んじたが、李氏が沮渠蒙遜に滅ぼされると、和は兄の契とともに外甥の李寳を連れて伊吾に難を避け民衆二千余家を招集し蠕蠕に臣従した。蠕蠕は契を伊吾王とし、二十年を経て和と契は使者を遣わして来降しようとしたが蠕蠕に逼られ、遂に部落を擁して高昌に至った。蠕蠕は部帥阿若を遣わして和を討たせ白力城に至らせ、和は騎五百を率い先んじて高昌を攻めたが契は阿若と戦い戦没した。和は余衆を収めて前部王国に奔り、この時、沮渠安周が横截城に屯していたため和はこれを攻め拔き安周の兄子樹を斬り、さらに高寧・白力の二城を剋してその戍主を斬り、使者を遣わして状を表した。世祖はその誠款を嘉し和にしばしば賜を与えた。和は後に前部王車伊洛とともに安周を撃破し首三百を斬った。世祖が成周公萬度歸を遣わして焉耆を討たせると、詔により和は伊洛とともに率いる所を度歸のもとに赴かせた。和は詔を奉じ度歸と会し栁驢以東の六城を喩降させ、これによりともに波居羅城を撃ってこれを拔き、後にともに龜兹を征し、度歸は和に焉耆を鎮させた。この時、柳驢の戍主乙眞伽が諸胡を率いて城に拠り叛くと、和は輕騎一百匹を率いてその城に入り乙眞伽を擒えて斬り、これにより諸胡は款附し西域を平定できたのは和の力による。正平元年(451年)和は闕に詣で、世祖はこれを優寵し上客として待遇した。高宗は和が先朝に帰誠したことにより鎮南将軍・酒泉公を拝し、太安中、出でて濟州刺史となり大いに称績あり、内都大官に徴されて獄訟を評決し捶楚を加えず疑いを察して実を得ることが多く、世にこれを称された。皇興中卒し年六十七、征西大将軍・太常卿・酒泉王を贈られ諡を宣とした。
和の子・欽
- 欽、字は孟直。中書学生より爵を襲ぎ、太和中に鎮南将軍・長安鎮副将を拝し陜州刺史に転じ、将軍如故のまま後に爵を降されて侯となり二十年(496年)卒した。
欽の子・景宣
- 景宣、爵を襲ぎ并州城陽王徽の後軍府長史を歴任し中堅将軍を加え東郡太守に遷り、普泰中卒し撫軍将軍・秦州刺史を贈られた。
景宣の弟・季弼
契の子・𤣥逹
- 𤣥逹、性格は果毅で父の風あり、叔父の和とともに闕に帰し上客となり、安西将軍・晉昌公を拝し、顯祖の時、出でて華州刺史・将軍如故となった。杏城の民蓋平定が衆を聚めて逆を為し、顯祖が給事楊鍾葵を遣わして平定を撃たせたが剋てず還ったため、𤣥逹に討平の詔が下った。杏城の民成赤李がまた黨を聚めて自ら王を号し郡縣を逼掠したが、𤣥逹は騎二百を率いてその狭路を邀撃してこれを破った。叛民の曾平原がまた乱を聚めると𤣥逹はこれを追撃し悉く平らげた。延興二年(472年)罪あって免官され、太和十六年(492年)爵を降され侯となり卒した。
𤣥逹の子・崇
崇の弟・興業