毛脩之
- 毛脩之、字は敬文。滎陽陽武の人。父の瑾は司馬徳宗の梁秦二州刺史。劉裕が姚泓を擒えた際、子の義真を長安に留めて鎮させ脩之を司馬としたが、赫連屈丐が義真を青泥で破ると脩之は捕虜となり綂萬に沒した。世祖が赫連昌を平らげると脩之を獲、神䴥中、脩之に吳兵を領させ蠕蠕の大檀を討たせ功により吳兵将軍・領歩兵校尉を拝された。後に世祖の平涼征に従い功あり散騎常侍・前将軍・光祿大夫に遷る。脩之は南人の飲食をよく作り多くが世祖の意に適い、世祖の親待を受け太官尚書に進み南郡公を賜爵、冠軍将軍を加え常に太官にあって御膳を進め、和龍討伐に従い別に三堡を破って奴婢・牛羊を賜った。この頃、諸軍が城を攻める中、宿衛の士の多くは戦陣にあり行宮の人は少なく、雲中鎮将朱脩之(劉義隆の旧将)が軍中に従っており、吳兵を率いて大逆を謀り和龍に入って浮海南帰しようとし、これを脩之に告げたが脩之は聴かず止めさせた。この日、脩之がいなければ大変となるところであった。朱脩之は遂に馮文通のもとへ亡命した。脩之は三堡を収めた功が多いことから特進・撫軍大将軍・金紫光祿大夫に遷り位は崔浩の下に次いだ。浩は脩之が中国の旧門で学は博洽でないながらも書伝を渉猟していることを重んじ、ともに論説する中で陳壽の三國志に及び、脩之は「良史の風があり、その著述の文義は典正で王廷に揚げられるにふさわしく、微にして顕、婉にして章を成し、班固以来これに及ぶ者はいない」と評した。これに対し脩之は「昔、蜀にあって長老から聞いたところでは、壽はかつて諸葛亮の門下書佐となり撻たれること百下に及んだため、その論で武侯(諸葛亮)を『応変の将略は長ずるところにあらず』と評したのだという」と語り、浩はこれに反論し「承祚(陳壽)の亮への評は、その事跡を案ずるに過美の誉れであり、恨みを挟んだ評ではない。なぜなら、亮が劉備を相した時は九州鼎沸の会・英雄奮発の時で君臣は魚水の如く相い得ながらも曹氏と天下を争うことができず、荆州を委棄し巴蜀に退入し劉璋を誘奪し孫氏と偽って連ね、辺夷の間に僭号したのは策の下たるもので、趙他(趙佗)と並ぶべきものであり、これを管仲・蕭何に亜ぐとするのは過ぎているのではないか。壽が亮を貶したことは失実とは言えない。しかも亮は蜀に拠って山嶮の固きを恃み、時宜に達せず勢力を量らず、厳威切決して蜀人を控勒し、才を矜り能を負んで自ら矯挙し辺夷の衆をもって上国に抗衡しようとし、隴右に出兵すること再び、祁山を一たび攻め陳倉を一たび攻めるも、疎遅にして会を失い摧衂して反り、後に秦川に入っても再び攻城せず野戦を求め、魏人はその意を知り塁を閉じ堅守し戦わずしてこれを屈し、窮まり勢い尽きて憤結し攻中に発病して死んだ。これによって言えば、古の善き将たる者、可を見て進み難を知れば退くという道に合致しているだろうか」と述べた。脩之は浩の言を然りとした。太延二年(436年)外都大官となり卒し諡を恭公とした。脩之は南にあって四子を儲けたが、ただ子の法仁のみが入国した。
脩之の子・法仁
- 法仁、高宗初年に金部尚書となり爵を襲いで殿中尚書に転じ散騎常侍を加えられた。法仁は声が壮大で、軍旅・田狩に至るまで唱呼処分すれば山谷に響いた。和平六年(465年)卒し、征東大将軍・南郡王を贈られ諡を威とした。
法仁の長子・猛虎
- 猛虎、太安中に東宮主書となり中舎人に転じ、また中散大夫に遷った。初め爵を襲ぎ散騎常侍となり、皇興中に蠕蠕が塞を犯すと顯祖の討伐に従い勇決の称あり、太和初年卒し豫州刺史を贈られ諡を康公とした。
猛虎の子・泰寳
- 泰寳、爵を襲いだが征虜長史の例により降されて侯となり卒した。
泰寳の子・乾祐
朱脩之
- 朱脩之は劉義隆の司徒從事中郎で滑臺を守っていたが安頡に囲まれた。その母が家にあって乳汁が忽ち出、母は号慟して家人に「私は年老いて乳が出るような時ではないのに今にわかにこのようになったのは、我が子が必ず殁するからだ」と告げ、果たしてその日、頡に擒えられた。世祖はその固守を善しとし内職を授け宗室の女を妻とした。しかし佞巧・軽薄な人柄で士人に賤しめられ、雲中鎮将となり、馮文通に入ると文通はこれを江南に送った。