魏書卷四十二 列傳第三十 㓂讚
㓂讚(字奉国、?-448年)は上谷の人で馮翊萬年に徙り住んだ。姚泓が秦を滅ぼすと雍人千余家に推されて主となり北魏に帰順、綏遠将軍・魏郡太守を拝され、のち流民を糾合して安逺将軍・南雍州刺史・軹縣侯・河南公・安南将軍・領護南蛮校尉に累進、洛陽に治して州にあること十七年、公私の誉れを得た。
年表(1件)
- 真君9年448年致仕を求めた後に卒去。86歳。諡は宣穆
㓂讚
- 㓂讚、字は奉國。上谷の人で、難を避けて馮翊萬年に徙った。父の脩之、字は延期。苻堅の東萊太守。讚の弟の謙之は道術ある人物で世祖が敬重した。それにより脩之を安西將軍・秦州刺史・馮翊公に追贈し命服を賜り諡を哀公とした。詔により秦雍二州は墓に碑を立て、また脩之の母を馮翊夫人に追贈し、宗従の者で太守・縣令・侯子男を追贈された者は十六人、臨民の者は七郡五縣に及んだ。讚は少くして清素で知られ、身長八尺、姿容は厳嶷で礼にあらざれば動かず、苻堅の僕射韋華は州里の高達で年時に異なりがあってもつねに風味を以て相待した。華が馮翊太守となると讚を功曹に召し、後に襄邑令を除せられた。姚泓が秦を滅ぼすと雍人千余家が讚を推して主とし帰順、綏遠將軍・魏郡太守を拝せられた。その後秦雍の民が河南・滎陽・河内に来奔した者が戸に萬数え、讚は安逺將軍・南雍州刺史・軹縣侯を拝せられ洛陽に治し雍州の郡縣を立てて撫でた。これにより流民は繈負して遠方より至り前の三倍に達し、讚に河南公を賜爵、安南將軍・領䕶南蠻校尉を加え刺史を仍ねさせ、洛豫二州の僑郡を分けてこれに益した。位は高く爵は重くとも接待を倦むことなかった。初め讚が未だ貴からざる頃、相者唐文に従ったことがあり、文は「君の額上の黒子は幘に入りその位は方伯に当たり公に封ぜられる」と相し、貴となってから文が民の礼で拝謁すると「明公は民の昔日の言をご記憶か」と言い、「かの日はただ公が貴となることを知るのみで州民となることまでは自ら知り得なかった」と応じた。讚は「かつて卿は杜瓊が官長人となれぬと言い、人はみなそうでないと言ったが、瓊は選ばれて盩厔令となり、卿はなお相中不見と言ったところ瓊は果たして暴疾により未拝のまま終わった。昔、魏舒は主人の兒の死を見て自ら己が必ず公に至ると知ったというが、吾もつねに卿の言った瓊の験によってもこの望みが尽きないでいる」と言い、文に衣服・良馬を賜った。讚は州にあること十七年、大いに公私の誉れを得、年老いて致仕を求め、真君九年(448年)卒した。時に年八十六。薄葬を遺令し、殮するに時服をもってし、世祖はこれを悼惜し諡を宣穆とした。
讚の長子・元寶
- 元寶、爵を襲ぎ豫州別駕となり、興安元年(452年)卒し安南將軍・豫州刺史を贈られた。
元寶の子・祖
- 祖、爵を襲ぎ高祖の時、安南將軍・東徐州刺史となり卒した。
祖の子・靈孫
- 靈孫、爵を襲ぎ赭陽太守となった。
元寶の弟・虎皮
- 虎皮、才器あり本縣令となった。
虎皮の弟・臻
- 臻、字は仙勝。年十二にして父の憂に遭い喪に居て孝を以て称され、財を軽んじ士を好んだ。顯祖末年、中川太守となり、馮熙が洛州刺史となり政は貪虐と号されていたが、仙勝は微かに附きよくその意を得て𢎞農太守に転じた。後に母が老いたため解任を求め久しくして許された。高祖初年、母の憂いが未だ闋けぬうちに恒農の大盜張煩らが良善を賊害したため都將として徴され、荆州刺史公孫初頭らとともにこれを追揃した。振武將軍・北陽鎮將を拝せられ威惠の称あり、建威將軍・郢州刺史に遷る。高祖の南遷に及び郢州の地は王畿となり、𢎞農太守を除せられたが受納の罪で御史の弾劾に遭い遂に廃され家で卒した。
臻の長子・祖訓
- 祖訓、順陽太守となった。
祖訓の弟・治
- 治、字は祖禮。洛陽令より稍く鎮逺將軍・東荆州刺史に遷り、代替の後、蠻民は刺史酈道元の峻刻を嫌い治を刺史とするよう請い、朝議は辺民を悦ばせるべしとして治を道元に代え征虜將軍を進号したが、戍兵を送った罪で道元は免官された。治の兄弟はともに孝友敦穆で、白首まで同居し父の亡き後も久しく生前と同じく堂宇に幃帳・几杖を設け、時節ごとに堂を開き列拝して涙を垂らし宗廟の如く供物を陳べ、吉凶の事には必ず先に啓告し、遠出しては帰る時も同様であった。治は世宗末年に前將軍・河州刺史に遷って任にあること数年、郤鐡忽の反乱に遇い、また城民が都に詣でその貪状十六条を列訴し、赦に会って免れた。しばらくして廷尉卿を兼ね、また尚書を兼ねたが権勢の家に畏避して顔色をうかがい、確たる決断を下せなかった。まもなく金紫光祿大夫に遷る。この時、蠻が三鵶で反すると治は都督としてこれを追討し戦没、持節・都督雍華岐三州諸軍事・衛大將軍・七兵尚書・雍州刺史・昌平男を贈られた。
治の弟・彌
- 彌、尚書郎を兼ね城陽王徽に親待された。永安末年、徽が尒朱兆を避け身を脱して南走し彌に命を帰したが彌はこれを納れず人を遣わして加害した。時論はこれを深く責め、彌は後に関西で没した。
治の長子・朏之
- 朏之、字は長明。直後・奉朝請より再遷して鎮逺將軍・諫議大夫となり、なお直後を務め建義中に冠軍將軍・東荆州刺史として出でて尚書を兼ね荆郢行臺となる。代遷して征虜將軍を除せられ、普泰中に爵を襲いでまた東荆州刺史となる。永熙中、鎮東將軍・金紫光祿大夫。武定四年(546年)卒した。時に年五十八。