魏書卷四十二 列傳第三十 薛辯
薛辯(字允白、?-422年)は蜀より河東汾隂に徙った一族の出。父彊の部落を襲統し、姚興のもとで建威将軍・河北太守となったが、劉裕が姚泓を平らげると営を挙げて降り、のち劉裕が長安を失うと北魏に帰順、太宗(明元帝)より平西将軍・雍州刺史・汾隂侯を授けられた。
年表(1件)
- 泰常7年422年位にあって卒去。44歳
薛辯
- 薛辯、字は允白。その先祖は蜀より河東の汾隂に徙り住んだ。祖の陶は薛祖・薛落らと部衆を分統し、世に三薛と号された。父の彊は再び部落を代領したが、祖落の子孫が微劣であったため、彊は三営を総攝し、民をよく撫でて帰服を得た。石虎・苻堅の代を経て姚興のもとで鎮東將軍となり、尚書に入る。彊が卒すると辯がその営を襲統し、興の尚書郎・建威將軍・河北太守となった。辯はやや驕傲で民心を失い、劉裕が姚泓を平らげると営を挙げて裕に降り、司馬德宗より寧朔將軍・平陽太守を拝された。裕が長安を失うと辯は魏に帰順し、河際で功を立て、太宗(明元帝)より平西將軍・雍州刺史・汾隂侯を授かった。泰常七年(422年)、位にあって卒し、時に年四十四。
辯の子・謹
- 謹、字は法順。容貌は魁偉で史傳をよく読んだ。劉裕が姚泓を擒えると相府行參軍に辟され、裕に従い渡江して記室參軍に転じた。辯が帰国を図ると密かに謹に報せ、謹は彭城より逃れて来奔し、朝廷はこれを嘉して河東太守を授け、後に平西將軍・汾隂侯を襲爵した。謹の治める地は屈丐(赫連氏)の勢力と接し、士を結んで敵に抗し威惠あった。始光年間、世宗(世祖太武帝)が奚斤に赫連昌討伐を詔すると、謹は偏師を領し前鋒鄉導として蒲坂を剋し、世祖は新旧の民を一郡に併せ、謹はそのまま太守となり秦州刺史・將軍を如故とした。山胡の白龍が険を憑んで叛くと、世祖の詔により鎮南將軍奚眷と謹が太平より北入してこれを平らげ、安西將軍・涪陵公・刺史如故を除せられた。太延初年、吐沒骨を征してこれを平らげ、謹は郡より州に遷り威恵兼備、風化大いに行われた。兵荒の後で儒雅の道が廃れていた時期、謹は庠を立てて詩書を教え、農閑期にことごとく受業させ、自ら邑里を巡って考試を行い、河汾の地に儒道が興った。真君元年(440年)、京師に召還され内都坐大官を除せられ、五年(444年)都將として世祖の北討に従い、後期の罪により中山王辰らとともに都南で斬られ、時に年四十四。まもなく鎮西將軍・秦雍二州刺史を贈られ、諡を元公とした。
謹の長子・初古拔(車輅拔・洪祚)
- 初古拔、一に車輅拔と曰い、本名は洪祚。世祖に沉毅・器識ある人物として名を賜り、弱冠にして司徒崔浩がこれを竒とした。真君年間、蓋吳が關右で騒擾すると薛永宗が河側に屯拠しており、世祖親らこれを討ち、拔に糾合させて河際に壁を築かせ、二寇の往来路を断たせた。事平らぎ中散を除せられ永康侯を賜る。世祖が南討すると都將として従駕し臨江して還り、また陸真とともに反した氐の仇傉檀彊を討って平定した。皇興三年(469年)散騎常侍を除せられ、西河長公主を娶り駙馬都尉を拝す。その年、族叔の劉彧の徐州刺史安都が城を挙げて帰順すると、勑により拔は彭城に詣で慰労し、冠軍將軍・南豫州刺史を除せられた。延興二年(472年)鎮西大將軍・開府を除せられ爵を進めて平陽公となり、三年、拔は南兖州刺史游明根・南平太守許含らとともに治民の名声で京師に召還され、顯祖(獻文帝)は親しく慰労し還州させた。太和六年(482年)爵を河東公に改め、八年三月、拔は入朝を詔されたが暴病で卒し、時に年五十八、左光祿大夫を贈られ諡を康とした。
拔の長子・允
- 允、字は寧宗。少くして父の風あり、弱冠にして中散を拝し鎮西大將軍・河東公を襲爵する。懸瓠鎮將を除せられ、蕭賾が将を遣わして辺を寇すると詔により都將として穆亮らとともに淮上で拒ぎ、持節・義陽道都將を授けられた。十四年(490年)文明太后が公除、高祖(孝文帝)が近侍を経た諸刺史鎮將にはみな赴闕を聴すと詔し、允も例に随って入朝、開革五等により公を降されて侯となる。十七年、高祖の南討に際し趙郡王幹・司空穆亮が西道都將となったが、幹が年少で軍旅に渉らぬため、高祖は允を仮節・仮平南將軍として幹の副とし、軍が裒父に達した頃、蕭賾の死により班師した。また都將として秦州の反賊支酉を共に討ち生擒して斬った。立忠將軍・河北太守を除せられ、郡は山河を帯び盗賊多く、韓・馬の両姓おのおの二千余家が強を恃み険を憑んで最も狡害で道路を劫掠し郷閭を侵暴していたが、允は郡に至った日にただちにその奸魁二十余人を収めて一時にこれを戮し、群盗は懾気し郡中は清粛となった。二十三年(499年)秋、疾に遇い郡で卒し、時に年四十四、諡を敬とした。
允の子・裔
- 裔、字は豫孫。爵を襲ぐ。性格は豪爽で、盛んに園宅を営み賓客・声伎で恣に嬉遊した。尚書左外兵郎・左軍將軍を歴任し征虜將軍・中散大夫に遷る。出でて洛州刺史となり、卒して平西將軍・歧州刺史を贈られた。
裔の子・孝紳
- 孝紳、爵を襲ぐ。稍く前將軍・太中大夫に遷る。孝紳は行いが険薄で、事により河南尹元世儁の弾劾を受け、死後に征西將軍・華州刺史を贈られた。
允の弟
- 允の弟、字は崇業。広平王懷の中令・汝隂太守となった。子の修仁は司空行參軍、修仁の弟元景は陳留太守となった。
拔の弟・洪隆
- 拔の弟、洪隆、字は菩提。解褐して陽平王國常侍となり、稍く河東太守に遷った。
洪隆の長子・驎駒
- 驎駒、読書を好み秀才に挙げられ中書愽士を除せられた。太和九年(485年)蕭賾の使者が来ると勑により驎駒は兼主客郎としてこれを接待し、十年秋、疾に遇い卒した。時に年三十五、寧朔將軍・河東太守を贈られ諡を宣とした。
驎駒の長子・慶之
- 慶之、字は慶集。学業をもって聞こえ、解褐して奉朝請・領侍御史となり廷尉丞に遷った。廷尉寺は北城に隣接し、ある夏の日に寺の傍で一頭の狐を捕えたことがあり、慶之と廷尉正の博陵崔纂とは、城狐は狡害なので速やかに殺すべきか、成長を待って秋分に殺すべきか意見が分かれ、二卿の裴延儁・袁翻も互いに異なる見解を示した。戯謔とはいえ詞義観るべきものがあり、事は世に伝わった。尚書郎に転じ尚書左丞を兼ね并肆行臺となり、龍丘子を賜爵し并州事を行い、征虜將軍・滄州刺史に遷った。葛榮に城を攻囲され陥ち、まもなく病で卒し、後に右將軍・華州刺史を贈られた。
慶之の弟・英集
- 英集、性格は通率で舅の李崇に随い揚州にあること積年、軍功をもって司徒鎧曹參軍を歴任し治書侍御史・通直散騎常侍に稍く遷り卒した。
驎駒の弟・鳯子
- 鳯子、都を洛邑に徙してより、鳯子の兄弟は華州河西郡に属を移した。太和二年(478年)太子詹事丞・夲州中正となり、世宗が即位すると太尉府鎧曹參軍に転じ、稍く治書侍御史に遷る。正始初年、持節・征義陽軍司となり、京に還ったその年の秋に卒し、時に年四十九、陵江將軍・光城太守を贈られた。
鳯子の弟・驥奴
- 驥奴、州主簿となった。
洪隆の弟・破胡
- 破胡、州治中・別駕を歴任し稍く河東太守・征仇池都將に遷った。六子あり。
破胡の長子・聰
- 聰、字は延智。世に名声があり治書侍御史・直閤將軍に累遷し高祖に知られた。世宗践阼の後、輔國將軍・齊州刺史を除せられ、州で卒し征虜將軍・華州刺史を贈られた。
聰の長子・景茂
- 景茂、司州記室從事・猗氏令となり早くに卒した。
景茂の弟・孝通
- 孝通、文学の素養あり、永安中に中尉高道穆に引かれ御史となり、中書舎人・中書侍郎・常山太守を歴任し悪疾に遇い卒した。
聰の弟・道智
- 道智、尚書郎となり卒した。
道智の子・長瑜
- 長瑜、天平中に征東将軍・洛州刺史となり潼關で賊を撃ち陣没し、都督冀定太三州諸軍事・車騎将軍・冀州刺史を贈られた。
道智の弟・仙智
- 仙智、郡功曹となった。
仙智の弟・曇賢
- 曇賢、国子博士で卒した。
曇賢の弟・景淵
- 景淵(小子)、尚書左民郎となった。
曇賢の弟・和
- 和、字は導穆。解褐して大将軍劉昶府行參軍となり司空長流參軍に転じ太尉府主簿を除せられ諫議大夫に遷った。永平四年(511年)正月、山賊劉龍駒が夏州で騒擾すると、詔により和は汾華東秦夏四州の衆を発し龍駒を討ち平らげ、東夏州の設置を表して世宗はこれに従った。また正平潁川二郡事を行い、通直散騎常侍を除せられ、蕭衍が将張齊を遣わして晉夀を寇すると詔により和は尚書左丞を兼ね西道行臺節度都督として傅豎眼ら諸軍とともに斉軍を大破した。正光初年、左将軍・南青州刺史を除せられ、州で卒し年五十五、安北将軍・瀛州刺史を贈られた。
和の長子・元信
- 元信、武定末に中軍将軍・儀同開府長史となった。
和の弟・季令
- 季令、奉朝請となった。
破胡の弟・破氐
- 破氐、本州別駕で早くに卒し、四子あった。
破氐の長子・敬賢
- 敬賢、鉅鹿太守となった。
破氐の弟・積善
- 積善、中書愽士・臨淮王提の友となった。
積善の子・隆宗
- 隆宗、太原太守となった。