魏書卷四十一 列傳第二十九 源賀

源賀(もと禿髪破羌、河西王禿髪傉檀の子、?-479年)は傉檀滅亡後に楽都から北魏に帰順し、世祖に同源を理由に源氏の姓と「賀」の名を賜った。凉州征討での招慰の功、南安王余暗殺後の高宗擁立への尽力、璽綬伝授、断獄の緩和・辺境徙刑への献策など、軍功と諫言の両面で三代(世祖・高宗・顕祖)に重用された忠臣。

年表(2件)
  • 太和元年2月477年温湯で療養中に高祖・文明太后が使者を送り病状を問うが、病篤く帰京
  • 太和3年秋479年73歳で薨去。侍中・太尉・隴西王印綬、諡は宣を追贈される

出自と改姓

源賀は自ら河西王秃髪傉檀の子と称した。傉檀が乞伏熾磐に滅ぼされると、賀は楽都から魏に帰順した。容貌風儀に優れ、世祖はかねて名声を聞いており、会見してその機知弁舌の器量を認め西平侯・龍驤将軍を賜い「卿と朕は源を同じくする、事情から姓を分けたに過ぎない、今後は源氏と名乗るがよい」と語った(禿髪氏と拓跋氏が同源であることに由来する改姓)。叛胡白龍・吐京胡の討伐で先登陥陣し平西将軍に進号した。

世祖期の軍功と改名

世祖の凉州征討に際し賀は道案内を務め、攻略の計を問われて「姑臧城外には四部鮮卑がそれぞれ後援している、いずれも私の祖父以来の旧民であるので、軍前で国威と福禍を説けば必ず帰順するでしょう、外の援けが服せば孤城を落とすのは容易です」と答え、世祖はこれに従い賀を派して諸部を招慰させ三万余落を降し、家畜十余万頭を得て、姑臧包囲時の外憂を除いた。凉州平定後、征西将軍・西平公に進み、蠕蠕征討・五城吐京胡討伐・盖呉討伐にも功を挙げ散騎常侍を拝し、世祖の江南臨江の際は前鋒大将となった。賀は雄果な性格で強敵に自ら奮撃するため、世祖は「兵は凶事であり戦は危険、卿は籌策を運らせるべきで身の力を恃むべきでない」と戒めた。賀の本名は破羌であったが、世祖は「人の名は実にふさわしくあるべきだ」として賀と改名させた。

高宗擁立と諫言

殿中尚書となった賀は、南安王余が中常侍宗愛に殺された際、禁兵を統べて内外を鎮め、南部尚書陸麗と共に高宗擁立の決議を主導、麗と劉尼を苑中に馳せさせ高宗を迎えさせ、賀自身は禁中で内応した。麗が高宗を抱いて単騎で戻ると賀は門を開いて即位させ、社稷は安定した。定策の功で征北将軍・給事中、西平王に進爵した。高宗即位後の百僚への賜与に際し「朕は善人に大いに賜う、卿は遠慮なく望みのままに取るがよい」と語られたが賀は固辞し、結局戎馬一疋のみを受けた。

当時の断獄には濫刑が多く、賀は上書して「律では謀反の家の子孫は他族に養われていても連れ戻して処刑するが、これは罪人の類を絶ち大逆の咎を明らかにするためである。劫賊で誅に当たる者の兄弟子姪が遠方や関津の隔たりにあれば連座しないのは、共謀でない限り類を絶つ罪ではないとする先朝の律意によるものだ。13歳以下で首謀の謀計に関与しない子は、その命を助け官に没収するに留めるべきだ」と献策し、高宗はこれを納れた。

冀州刺史・隴西王に転じた賀はさらに上書し「生を全うすることこそ最大の宝、死を宥すことこそ最大の徳だが、死罪はみだりに赦せない、しかし軽重を計り憐れむべき事情もある。北の強敵・南の狡賊がなお辺境を脅かす今、大逆の直接殺人や贓罪・盗み・過誤による死罪でない限り、命を助けて辺境守備に配すれば、既に断罪された者に生の恩を与え、徭役の家にも休息の恵みが及び刑措(刑を用いぬ)の理想に近づく。虞書にいう『流宥五刑』の義である」と説き、高宗はこれを納れ、以後死罪の多くが辺境徙刑に改められた。高宗は「源賀の勧めで多くの死刑を宥し北の辺戍に徙して以来、一年で救われた命は少なくなく、辺境の兵も増強された、卿らの朕への貢献はこれに勝るものはない、皆が賀のようであれば天下の統治に何の憂いもない」と群臣に語り、群臣は「忠臣でなければこの計は進言できず、聖明でなければこの言は納れられない」と応じた。

賀の州における断獄は情理に適い徭役も簡素化されたが、武邑郡の姦人石華が沙門道可を使い賀の謀反を誣告した事件があった。高宗は「賀の忠誠は朕が保証する、そのようなことはあり得ない」として厳しく取り調べさせ、果たして華は誣告を自白した。高宗は使者を送り「卿の忠誠は先朝以来著しいのに、清廉の身で誣告の汚名を受けた、朕は直ちに検証し極刑に処した、善政を続けて誹謗の言に心を煩わせるな」と伝え、賀は謝表を奉った。州の治績評定で賀は第一とされ衣馬器物を賜り天下に布告された。賀は代任を願い出たが、朝議は賀が民情を得ていることを理由に許さず、7年の在任の後、太尉に召された。蠕蠕の侵寇には従駕して追討し破った。

高祖への璽綬伝授と諫言・治績

顕祖が京兆王子推への譲位を図った際、賀は諸軍を漠南に督していたが急ぎ召還され、公卿に議を命じられると賀は毅然として不可を主張、詔により賀は持節して皇帝の璽綬を高祖に授けた。この年、河西の勅勒が叛くと、賀はこれを討ち二千余落を降し、都朱于ら賊党を枹罕まで追撃して大破、首五千余級、男女一万余口・家畜三万余頭を虜とした。さらに統万・高平・上邽の三鎮に叛いた勅勒を金城まで追い斬首三千級を挙げた。賀は兵法と先儒の説を採録して要を略した「十二陣図」を上表し、顕祖はこれを嘉した。

老齢を理由に辞位を願い出たが許されず、詔により三道諸軍を漠南に督させることとなった。当時毎年秋冬に三道から軍を出して北寇に備え春に班師していたが、賀は「京師の労役が過重でこれは辺境防衛の長計ではない」として、諸州鎮から武勇の士三万人を募り徭賦を免じて手厚く賑恤し三部に分け、鎮の間に築城して一鎮に万人を置き強弩十二床・武衛三百乗を配し(弩一床に牛六頭、武衛一乗に牛二頭を給す)馬槍・器械を多く造り、武略に優れた大将二人で鎮撫させ、冬は講武、春は種殖という形で兵農を両立させて疲弊なく蓄積を図る策を献じた。また白道の南三ヶ所に倉を立て近隣州鎮の租粟を運んで充足させることで、京師が常に北方への憂慮を抱かずに済むと説いたが、この案は実行されなかった。賀はなお病を理由に致仕を再三願い出て、ようやく許された。朝廷の大議には常に諮問され、衣薬珍羞を賜り続けた。太和元年(477年)2月、温湯で療養中、高祖・文明太后は使者を再三送り病状を問うたが病篤く帰京、賀は諸子に遺言し「私が老病で職を辞したにもかかわらず天の恩により爵位が汝らに及んだ、驕らず怠らず奢らず妬まず、疑いあれば問い、言うときは審らかに、行いは恭しく、服は分をわきまえ、悪を退け善を挙げ、賢を親しみ佞を遠ざけ、目に見るものは必ず真、耳に聞くものは必ず正しくあれ、誠勤をもって君に仕え清約をもって身を持せ。私の死後は時の装束のみの単櫝で足り、芻靈(葬送の草人形)や明器は一切用いるな」と伝えた。太和3年(479年)秋、73歳で薨じ、侍中・太尉・隴西王印綬、諡は宣を追贈され、賻として雑綵五百疋・輼輬車・命服・温明秘器を賜い金陵に陪葬された。

長子・源延

長子の源延は謹厚で学を好み、功臣の子として侍御中散、武城子・西治都将となり没し、涼州刺史・広武侯、諡は簡を追贈された。子の源鱗が爵を襲いだ。

次子・源懐

延の弟の源思礼(後に懐と改名)は謙恭寛雅で大度あり、高宗末年に侍御中散、父賀の辞老に伴い高宗の詔で父の爵を受け征南将軍となり、持節して漠南に諸軍を督し、殿中尚書・長安鎮将・雍州刺史として清儉恵政・撫恤に優れ、劫盗を鎮め流民を帰還させた。一年余りで殿中尚書に復し侍中・参都曹事を加えられ、蠕蠕征討の六道大将を督し、尚書令に遷り律令の議定に参与、例により公に降格され司州刺史、南征に従駕し衛大将軍・領中軍事を加えられたが母の喪で去職し帛三百疋・穀千石を賜った。太和19年(495年)征北大将軍・夏州刺史、都督雍岐東秦諸軍事・征西大将軍・雍州刺史を経て景明2年(501年)尚書左僕射・特進に召された。

姦吏の犯罪逃亡が多く赦により釈免される慣行があったところ、以後は逃竄者を永遠に流罪とし、逃げ通せば兄弟が代わりに徙されるとの詔が出た際、懐は「条制では逃吏は赦の対象外だが、聖朝の恩は前代より厚く、流徙の者も途中で赦されて還ることがある、まして未発の者を辺戍に送り続けるのは不均衡である、宰守の犯罪逃亡も多いのに彼らは恩赦で還れるのに、これらの者だけ苦しめるのは公平を欠く」と上奏した。門下省は既定の制度により却下したが、懐は再度上奏し「法は経通を貴び治は簡要を尚ぶ、条制では勲品以下の逃亡犯は恩赦を受けず妻子まで流罪となるが、これは姦を絶つためとはいえ通例とすべきではない。事条は流外官の不正のみを対象とし、九品以上の官吏に潔白でない者がいないわけではない、州守宰の清流ですら貪濁で逃亡すれば恩赦を受けられるのに、勲品以下だけが除外されるのは不公平だ。謀逆すら軽い恩で免ぜられるのに、微罪の吏だけが赦されないのは、大宥の道理に反する」と論じ、世宗はこれを納れた。

車騎大将軍・涼州大中正となった懐は、南朝(蕭斉末期)の内紛(蕭宝融の荊郢での僭号、雍州刺史蕭衍の東進、広陵・京口の去就、鍾離・淮陰の観望、建康の孤立)を詳細に分析し、天が与えた好機として乗ずべきと上表したが、詔は「不君不臣の南朝が自滅するのを養うのは仁ではない、蕭衍が進んでもその主佐もまた乱亡の遺孽に過ぎない」として時機を待つ方針を示し、まもなく南方の民の窮状を鑑み揚州の兵力で対処する形となった。

懐はさらに、父源賀の高宗擁立・璽綬伝授の功に比して、陸麗の子陸叡が父の功で鉅鹿郡開国公を得たのに自らの家勲が未だ報われていないことを上表し、高祖はこれを認めて馮翊郡開国公(食邑900戸)を授けた。使持節・侍中・行台として北辺六鎮(恒燕朔三州)を巡行し貧民を賑給、風俗の採訪・治績評定を行った。皇后の父于勁の一族が権勢を振るう中、于勁の兄于祚が沃野鎮将として収賄していたのを懐は容赦なく弾劾し免官、懐朔鎮将元尼須が旧交を頼み「命の長短は卿の口次第だ、寛恕を」と請うても「今日の席は源懐が旧友として飲む席であって、糾問の場ではない、公庭では別だ」と退け、後日正式に弾劾した。

懐はさらに北鎮の水田を主将・僚属が独占し百姓に瘠土のみ与えている実情を上奏し、地令に従い貧者優先で分配し、不公平があれば鎮将以下の官を連署処罰すべきと献策、また沃野鎮の冗官800余人を五分の二削減すべきとの上奏も認められ、四十余条の北辺便宜策がすべて嘉納された。正始元年(504年)9月、蠕蠕が十二万騎で六道から侵攻し沃野・懐朔から恒代に迫るとの報に、懐は使持節・侍中として北蕃に出て指揮を執り、子の源直寝徽を伴わせるよう詔され、馬・細鎧・御矟を賜った懐は庭で騎乗し矟を執って「気力は衰えたがまだこれほどできる、蠕蠕は老いた私を侮っているだろうが侮らせはしない」と豪語し、時に61歳であった。懐が雲中に至ると蠕蠕は退散した。

懐は恒代の諸鎮を巡視し要害の地五十八条の築城案を上表、「蠕蠕は古来御し難く、遊牧の民で水草を追うのが常であり、代々の討伐でも制しきれなかった。魏が平城に都した当時は威が天下を震わせたが、今は洛陽に遷都し北辺は遥かに遠く、諸蕃も叛き、旱魃で軍備も十分の八が欠けている。城郭の堅固さで暫労永逸を図るべきで、旧鎮を東西相接するよう築城・置戍し、農を観て粟を積み緊急時には各個撃破すればよい。北方の沙漠は夏は水草に乏しく大軍は動かしにくいが冬は氷結し騎兵の侵攻も困難になるので、城の防備さえ固めれば北方の憂いはない」と論じ、世宗はこれに従った(現在の北鎮の東西九城がこれに当たる)。驃騎大将軍に遷り、武興の氐王楊紹先の叔父楊集起の反乱には使持節・侍中・都督平氐諸軍事として討伐に当たり、邢巒・李煥らも節度を受けた。正始3年(506年)6月、63歳で卒し、東園秘器・朝服一具・衣一襲・銭二十万・布七百疋・蝋三百斤を賜い、司徒・冀州刺史・兼吏部尚書を追贈された。諡号については太常寺で「靖公」、司徒府で「穆公」の議があったが、詔は最終的に「愛民好与」の意で「恵公」とした。懐は寛容簡約な性格で「貴人が世務を治めるには要諦を挙げればよく、家を建てるにも外観の高さと梁の平正さ、基壁の堅牢さが備われば、細かな削り不足は家の欠陥ではない」と語った。酒は飲まなかったが人に勧めるのを好み、賓客との交際を大切にし音律にも通じ、白髪の齢に至っても閑暇には自ら糸竹を奏でたという。懐には7子があった。

懐の子孫

長子の源規(字霊度)は中書学生・羽林監として爵を襲ぎ33歳で没し、子の源肅が襲いで没し、子の源紹が襲ぎ景明初年(500年頃)王爵の回復を受け隴西郡開国公、光禄大夫で没し度支尚書・冀州刺史、諡は文を追贈された。子の源文遠は爵を襲ぎ北斉受禅で例降。

規の弟の源栄(字霊並)は32歳で司徒掾で没し光州刺史を追贈、栄の弟の源徽(字霊祚)は28歳で直閤将軍で没し洛州刺史、諡は質を特贈された。

徽の弟の源元諒は懐の弟の源奐の後を継ぎ没し代郡太守を追贈された。

源子雍

元諒の弟の源子雍(字霊和)は若くして文雅を好み学に篤く誠意で士を待ち多くの人望を集めた。秘書郎から太子舎人・涼州中正、肅宗即位後は宮臣の例で奉車都尉、司徒属・太中大夫・司徒司馬を経て恒農太守、夏州刺史となった。沃野鎮の破落汗抜陵の反乱が波及し統万の逆胡も呼応する中、子雍は籠城して自守、糧が尽きると馬皮を煮て食い、善政で士心を得て衆は一致団結した。飢饉が深刻化すると、子雍は自ら東夏へ食料調達に出向くことを決め、子の源延伯に守備を委ねた。僚属は分散の危険を説いて共に退去することを勧めたが、子雍は「私は代々国恩を受け早くに藩鎮の任を受けた、ここが死地であっても求めるものは他にない、ただ糧の欠乏で勝機を制せずにいる、東州で数月の食を得て必ず戻る」と涙ながらに衆に告げ、羸弱の兵を率いて出発、延伯と将士は城外まで見送り皆泣きながら拝辞したという。

数日後、子雍は朔方の胡帥曹阿各抜に阻まれ捕らえられたが、密使を城中に送り「大軍は近い、努めて守れ、必ず子孫に福を残す」と伝え、延伯にも固守を命じた。子雍は捕虜となりながらも胡人に敬われ民の礼で遇され、安危禍福を説いて阿各抜に降伏を勧め、阿各抜は従おうとしたが果たせずに死に、弟の曹桑生が部衆を統べ最終的に子雍に従い降った。北海王元顥が大行台となった際、子雍は賊の攻略可能性を具申し、顥は兵馬を与えて先鋒とさせた。東夏一帯が反乱に覆われる中、子雍は転戦し九旬の間に数十戦、東夏を平定し租粟を統万へ運び二夏を安定させた。

蕭宝寅らが賊に敗れると、賊帥宿勤明達が息子の阿非を派して華州白水を包囲し関右が騒乱に陥ったが、子雍は黒城平定直後に夏州の義民を率いて南下、賊帥康維摩の鋸谷防衛を撃破し維摩を生け捕り、賊帥契官斤も楊氏堡で破った。子雍は西夏から東へ千里を転戦し、朝廷は初めてその消息を得た。散騎常侍・使持節・仮撫軍将軍・都督兼行台尚書に任じられ、白水郡で再び阿非軍を破って多くを斬獲、肅宗の璽書で慰労された。

葛栄が信都を包囲する中、子雍は征北将軍・北討都督となり、相州刺史安楽王元鑒が鄴で反乱を起こすと都督李神軌と共に討伐に向かい、鑒の弟斌之の夜襲を退けて鄴城を包囲、裴衍・神軌らと共に鑒を平定、陽平県開国公(食邑1500戸)・鎮東将軍に進んだ。裴衍と共に鄴を発って葛栄討伐に向かうと信都が陥落、子雍は冀州刺史に任じられたが、冀州の失陥を理由に「賊は飢餓で野掠に頼っている、朝廷は食が足り兵も充足している、高壁深塁を築いて争わなければ、賊は戦を望んでも掠奪もできず数旬で自壊する」と持久策を上表した。しかし裴衍が急進を求め、子雍は重ねて慎重論を上表し「不可であれば裴衍のみを行かせるべき」と願ったが聴かれず、裴衍と共に進軍し陽平郡東北の漳曲で葛栄の十万の大軍に遭遇、子雍は敗死した、享年40。朝野はこれを深く痛惜し、車騎大将軍・儀同三司・雍州刺史・公の爵を追贈され、永安中に司空を重贈、諡は荘穆。

長子の源延伯は従伯の後を継いだ。次子の源士則は早世、その弟の源士正・源士規は共に事に坐して死んだ。次の源楷(字士質、小字那延)は爵を襲ぎ武定中、斉文襄王府参軍、北斉受禅で例降。

延伯は当初司空参軍事として南秦の呉富の反乱討伐に叔父の源子恭が軍司として従軍した際、延伯自身も統軍として西討に従い常に先鋒を務め、子恭は延伯の若さを案じてしばしば制止したが止められなかった。子雍が夏州で援兵を求めた際、延伯は羽林千人を率いて赴き城戦・野戦で三軍随一の勇を発揮、子雍が東夏へ向かう際は延伯に城守と後事を託され、士卒と共に湯菜を分かち城を固く守った。子雍が胡に捕らわれると全城が動揺したが、延伯は「父の吉凶は測りがたく心は焦るが、命を受けて城を守る任にある以上、私情で公を害しては忠孝共に欠ける」と説き、衆はその義に感じ奮起したという。朝廷はこれを嘉し龍驤将軍・行夏州事、五城県開国子(食邑300戸)に封じた。子雍と黒城平定・杖裳橋の戦で先鋒として維摩を生け捕り、白水では阿非を破り、子雍と共に都に至り浮陽伯に進爵、諫議大夫・仮冠軍将軍・別将として子雍の北討に従い葛栄との戦いで戦没、享年24、持節・平北将軍・涼州刺史・開国の爵を追贈された。子の源孝孫は爵を襲ぎ北斉受禅で例降。

源子恭

子雍の弟の源子恭(字霊順)は聡慧で学を好み、司空参軍事・司徒祭酒・尚書北主客郎中(南主客事を摂す)を経た。蕭衍の亡命者許周が蕭衍の給事黄門侍郎を自称し朝士に信じられていた際、子恭は牒状の矛盾を精査し「昔の伯夷叔斉や厳光の故事のように、真に栄禄を辞す志ある者は隠れて姿を消すもので、周のように広く知己を訪ね歩き栄達を求める態度は逃宦の志とは相容れない」と論じ、詳細な照会を要求、果たして周は罪により帰朝した偽装者であったことが判明した。河州羌の却鐡忽が反乱を起こすと子恭は持節・行台として討伐し、民に一切害を及ぼさぬよう軍紀を厳しく保ち威恩を示すことで二旬のうちに降伏させた。正光元年(520年)行台左丞として北辺を巡行、起部郎に転じ、明堂・辟雍の未完成を憂い、高祖・世宗以来の造営の停滞(資材・人員不足、寺院造営への流用)を指摘し、経始の緊急性を説く上表を行い、詔でこれに従った。

冠軍将軍・中散大夫・領治書侍御史、秦益の氐反乱では持節・都督河間王琛軍司として討伐、南秦州事代行、六鎮反乱では兼給事黄門郎・持節慰労、河内太守・後将軍として絳蜀の反乱(丹谷・清廉二路)に当たり、建興蜀の連動反乱にも持節・散騎常侍・仮平北将軍・征建興都督・兼尚書行台として正平都督長孫稚と合流し大破、賊帥范明遠・劉牙奴を降した。平南将軍・豫州刺史、散騎常侍・撫軍将軍を加えられた。

武泰初年(528年)郢州刺史元願達の蕭衍への降伏に伴い、子恭は都督尉慶賓に代わり討伐に当たり、蕭衍将夏侯夔の来寇(新蔡・毛城攻撃)を撃退、夏侯亶の南頓・陳項侵攻も破った。鎮南将軍・兼尚書行台として淮を渡り民を淮北に徙し郡県・戍を設置、蕭衍の直閤将軍胡智達ら八将の侵攻も撃破し智達を斬り閻次洪を生け捕った。元顥の洛陽入城に際し車騎将軍を加えられたが公然と抗せず、密使で荘帝の動静を伝えた。顥の敗北後は征南将軍・兼右僕射・仮車騎将軍、散騎常侍を加えられた。板橋蛮の文石活・石忌麤が蕭衍の印節に誘われ叛くと自ら急襲して平定、諸蛮は服し輸税を願い出た。右光禄大夫・給事黄門侍郎、臨潁県開国侯(食邑600戸)、散騎常侍を経て侍中に遷った。

爾朱栄死後、世隆・度律が河橋を占拠すると子恭は都督として討伐に赴いたが、太府卿李苗が夜に河橋を焼き世隆は退却、子恭は兼尚書僕射・大行台大都督、衛将軍・仮車騎将軍として太行に塁を築いて防備したが、爾朱兆の南出に伴い部下の都督史仵龍・羊文義が柵を開いて降り、子恭は敗れて緱氏に逃れたが捕らえられ、まもなく釈放された。前廃帝初年、驃騎将軍・左光禄大夫・侍中、散騎侍郎・都督三州諸軍事・仮車騎大将軍・行台僕射・荊州刺史として定策の功により臨汝県開国子(食邑300戸)に封ぜられ、叛蛮雷亂(蕭衍の兖州刺史章綬を受けていた)の討伐にも功を挙げた。永熙中(532年頃)吏部尚書・驃騎大将軍、豫州での戦功により襄城県開国男(食邑200戸)、さらに新城県開国子(食邑400戸)を追贈的に加えられたが、これを第五子の源文盛に転授するよう願い出て許された。天平初年(534年)中書監、天平3年(536年)魏尹、のち斉献武王軍司となり、元象元年(538年)〜興和2年(540年)に都督徐兖二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・司空公・兖州刺史、諡は文献を追贈された(子恭は元象元年に没し興和2年に贈られたと見られる)。子の源彪(字文宗)は子恭在世中に臨潁県開国侯を転授され武定末、太子洗馬、彪の弟の源文瑤は武定中、襄城県開国男を襲い北斉受禅でいずれも爵を降された。

子恭の弟の源纂(字霊秀)は員外散騎侍郎から征虜将軍・通直散騎常侍・涼州大中正、大府少卿に転じ建義初年(528年)河陰の変で37歳で殺害され、散騎常侍・征北将軍・定州刺史を追贈された。

懐の弟の源奐(字思周)は若くして謹密、中書学生として父(源賀)の勅勒討伐に従軍し斬獲の功を挙げ中散に遷り、州鎮十余ヶ所の検察でいずれも功績を挙げ長楽太守となったが母の老いを理由に解官帰養し没した。子はなかった。

史論

史臣曰く、源賀は堂々として単なる武節の人にとどまらず、高宗を擁立し禅譲を庭で阻止したことは、まさに社稷の臣というべきである。源懐は幹略を兼ね備え内外に声望を挙げ、賢父の跡を継いで先業を絶やさなかった。源子雍は夏州で功を立てながら身を冀野で失った、惜しむべきことである。