魏書卷四十二 列傳第三十 酈範

酈範(字は世則、小名は記祖、范陽涿鹿の人、?–?)は世祖の東宮に給事したのち、征南大将軍慕容白曜の南征に左司馬として従い、無鹽・肥城・升城など青斉の攻略でたびたび的確な献策を行い青州刺史に至った。京に還り年六十二で卒し、諡は穆。子の道元は酷吏伝にある。

酈範

  • 酈範、字は世則、小名は記祖。范陽涿鹿の人。祖の紹は慕容寶の濮陽太守で、太祖が中山を定めると郡を挙げて迎降し兖州監軍を授けられた。父の嵩は天水太守。範は世祖の時、東宮に給事し、高宗が践阼すると先朝の旧勲を追録され永寧男を賜爵し寧逺將軍を加えられ、治禮郎として世祖・㳟宗の神主を太廟に遷す任にあたり、爵を進めて子となり征南大將軍慕客白曜の南征に左司馬として従った。師は無鹽に次り、劉彧の戍主申纂は城を憑んで拒守した。識者はみな攻具が未だ整わぬため進むべきでないとしたが、範は「今、軽軍にて遠く敵境に深入りしており淹留・機を失ってはならない。しかも纂は必ず我が軍の来るのが速く去らぬと見て、攻守は方城に憑めると謂うだろう。弱卒を恃むこのときこそ天がこれを亡ぼす好機である。もし今、外は威形を潜め内は戎旅を整えて厳しく将士を励まし、意表を突けば一撃で剋てる」と説き、白曜は「一日敵を縦せば数世の患いとなる、今もし遅緩とすれば民心は固まってしまう。司馬の策が正しい」と言い、遂に軍を潜めて偽って退き、攻めぬそぶりを見せた。纂は果たして備えを設けず、夜のうちに部を分け旦になると城を騰り、崇朝にして剋った。白曜は捕えた人をことごとく軍実にしようとしたが、範は「齊は四履の地で世に東秦と号され、遠く経略せねば未だ定め難い。今、皇威は始めて被り民は未だ霑澤せず、連城には貳心を懐く将があり、この邑には拒守の夫がある。まず信義を示して軌物を示し、しかる後に民心を懐かせれば二州は定まる」と説き、白曜は「これは良策である」と免じた。次いで肥城に進み、白曜がこれを攻めようとすると、範は「肥城は小さいが攻めれば日を淹え、得ても軍声に益なく、失えば威勢を損なう。まして無鹽の卒の死者が塗炭にあるのを見ている。成敗の機はここに鑑みるべきだ。飛書で告喩すれば攻めずして自ら伏し、降らずとも逃散するだろう」と説き、白曜は書をもってこれを諭すと肥城は果たして潰えた。白曜は衆を前に範を目して「この行いで、卿を得て三齊も定まらぬことはない」と言った。軍が升城に達すると劉彧の太原太守房崇吉は母妻を棄て東に走り、彧の青州刺史沈文秀は寧朔將軍張元孫を遣わして帰欵を奉じ、白曜が偏師を遣わそうとすると、範は「桑梓の恋は同徳を懐くゆえだが、文秀の家は江南にあり青土には墳栢の累がない。衆数萬・堅甲堅城を擁し、強ければ拒戦し勢いが屈すれば走るだろう。師が未だ迫らぬのに何を畏れることがあろうか。すでに援軍を求めているのは使者の言葉を観るためで、詞は煩わしく顔は愧じて視は下がり志は怯えている。幣は厚く言は甘い、我らを誘っているのだ。遠く図らねば軍勢を虧く恐れがあり、進めば取るものなく退けば強敵に迫られ、羝羊が藩に触れ角を痛めるようなものだ。まず歴城を守り盤陽を平らげ、下梁鄒を剋し楽陵を剋してから軌を連ね鑣を揚げて直進すれば、壺漿を以て路傍で迎えられないことがあろうか」と説いたが、白曜は「卿は前後の策で衷を失ったことがないが、今日の算は吾の取らぬところだ。道固の孤城は自守するのみで、盤陽の諸戍は野戦できず、文秀は必ず殄びる。天与の機を取らねば後悔しても及ばぬ」と言った。範は「短見ながらなお空言とは思われぬ。歴城は食兵足りて一朝で抜けるものではない。文秀はすでに東陽を諸城の根本としており、多く軍を遣わせば歴城の守りが立たなくなり、少なく遣わせば敵心を懼れさせられない。もし文秀が還って叛き門を閉ざして拒守すれば、偏師は前で挫かれ梁鄒諸城はその後を追撃され、文秀は大軍を率いて迫り、腹背に敵を受け進退窮まる。韓白のような将でも全きを得まい。願わくばさらに思案し賊の計に入らぬよう」と説き、白曜は遂に止めた。白曜は表を上げて範を青州刺史とし新民を撫でさせ、後に爵を進めて侯となし冠軍將軍を加え尚書右丞に遷り、後に平東將軍・青州刺史・假范陽公を除せられた。範が州を解いて京に還る夜、隂毛を夢で拂い踝に触れる夢を見たが、後日、齊人の占夢者が「史武進めば齊で豪盛となるであろう、使君は東泰を臨撫し海岱に光被し必ず重く齊の営邱を再び治めるだろう」と語り、範は笑って「吾はまさに卿のために必ずこの夢の験を果たそう」と答え、果たしてその言の通りとなった。この時、鎮將元伊利が範を外賊と交通していると表したため、高祖は範に詔して「卿は舊功もなく位は重班にないのに超えて顕爵に遷り方夏を任されているのは、まさに勤能が遠く及ぶゆえであり、外に殊効なくとも未だ時に負く咎もない。しかるに鎮将伊利が妄りに姦撓を生じ、卿が船を造り玉を市に出し外賊と交通したと表し、罪に陥れんとして州任を窺覦したが、有司が推験し虚実は自ずから顕れ、罪ある者は今その辜に伏した。卿はまさに算略を明らかにし復び疑いを懐くことなかれ。卿の別犯の処刑と鞭を待つべきところ、今は怒刑を罷め鞭を止め五十の罰のみとする。卿は宜しく克く辺服を循綏し朕の意に称うべし」と述べた。京に還って年六十二、京師で卒し諡を穆とした。範には五子あり、道元は酷吏傳にある。

道元の第四弟・道慎

  • 道慎、字は善季。史傳に渉り幹略あり、奉朝請より尚書二千石郎中に遷り威逺將軍を加え漢川行臺として降欵を迎接し、功により員外常侍・領郎中を除せられ輔國將軍・驍騎將軍に転じ、出でて正平太守となり治政に能名あり、長樂相に遷った。正光五年(524年)卒し年三十八、後將軍・平州刺史を贈られた。

道慎の子・中

  • 中、字は伯偉。武定初年、司徒刑獄參軍となった。

道慎の弟・道約

  • 道約、字は善禮。起家して奉朝請となり再遷して冠軍將軍・司徒諮議參軍。朴質遅鈍で琴書を頗る愛したが、性格は多く造請を好み栄利を干謁したため多く人に笑われ、世に坎壈で飢寒を免れなかった。晩年に東萊・魯郡の二郡太守を歴任し政は清静で吏民はこれに安んじた。年六十三、武定七年(549年)卒した。

範の弟・神虎

  • 神虎、尚書左民郎中となった。

神虎の弟・夔

  • 夔の子の惲、字は幼和。学を好み文才あり吏幹に長じ、正光中、刺史裴延儁に主薄として用いられ学校の修起を命じられ、また秀才に挙げられ射策高第となり奉朝請となった。後に延儁が討胡行臺尚書となると行臺郎に引かれ、招撫の功で称され尚書外兵郎・行臺郎を仍ね、延儁が解けて還るとともに行臺の任を終え、長孫雅がまた行臺郎に引き征虜将軍を加え、惲は頗る武用を兼ね常に功名をもって自ら許し、雅に計を進めるたび多く納用され、功賞をもって魏昌縣開國子・邑三百戸となった。惲は軍中で身の官爵を減じ父への贈官を求めることを啓し、夔に征虜将軍・安州刺史が贈られた。惲は後に唐州刺史崔元珍とともに平陽を固守し、平泰中、尒朱榮が兵を挙げて洛に赴くと惲は元珍とともにその命に従わず、榮の行臺郎中樊子鵠に攻められ城が陥ちて害され、時に年三十六、世は皆これを痛惜した。作った文章は世に広く行われ、慕容氏書を撰したが未完に終わった。

惲の子・懷則

  • 懷則、武定末に司空長流參軍となった。

夔の弟・神期

  • 神期、中書博士となった。

神期の弟・顯度

  • 顯度、司州秀才・尚書庫部郎となった。