世祖に側近として重んじられた側近臣
- 盧魯元は昌黎徒河の人。曾祖の副鳩は慕容垂に仕えて尚書令・臨沢公。祖父・父はいずれも大官に至った。魯元は敏にして学を好み、寛和で雅度があった。太宗の時、通直郎に選ばれ忠謹をもって東宮に給侍し恭勤して節を尽くした。世祖はこれを親愛し即位後は中書侍郎として左右の遺を拾わせ寵待はいっそう深まったが、魯元はますます謹粛を加え、世祖はいよいよ親信し内外の大臣もこれを敬憚しないものはなかった。性質は寛容で人と交わることを善くし、人の過ちを隠して美を揚げたため、公卿はみなこれに親附した。
- 魯元は書に長け文才があり次第に中書監に遷り秘書事を領し襄城公の爵を賜り散騎常侍・右将軍を加えられ、その父に信都侯が追贈された。赫連昌討伐に従い世祖が自ら追撃してその城門に入った際、魯元は世祖に随い出入りしたが、この日わずかに魯元を失えばほとんど危殆に至るところであった。平涼征討に従い功により征北大将軍を拝し侍中を加えられ、のち太保に遷り録尚書事となった。世祖はこれを貴異し常に征伐に従わせ臥内(寝室)に出入りさせ、平定のたびに功として僮隷を賜わり前後数百人、布帛は万を数えた。世祖はその邸に臨幸すること旬日を越えないほどで、往来しやすいよう宮門の南に甲第を賜り衣食・車馬はみな乗輿(皇帝)の副であった。
- 真君三年(442年)冬、車駕が陰山に幸した際、魯元は病により従わなかったが、侍臣が病を問い医薬を送り伝駅が路に相連なった。薨じると世祖は甚だ悼惜し還ってその喪に臨み哭して哀慟した。東西二宮(皇帝・皇太后の宮)は太官に日々奠を送らせ、朝夕哭臨が終わればすなわち鐘鼓伎楽を備え奏し、輿駕は葬儀に三度臨んだ。喪礼は安成王(叔孫俊)の故事に依ったが賻送はさらに加えられ、襄城王を贈られ孝と諡された。崞山に葬られ碑闕が建てられた。魏の興隆以来、貴臣への恩寵でこれに比べられるものはなかった。子の統は爵を襲いだ。
盧魯元の子・内
- 少子の内は内給侍として東宮にあり、恭宗に深く昵まれ常に共に起臥し衣食を同じくした。父子ともに両宮(世祖・恭宗)に寵を得て勢いは天下に傾いた。内の性質は寛厚で父の風があったが恭順さは父に及ばなかった。正平の初め、宮臣(恭宗に仕えた者たち)が伏誅した際、世祖は魯元のゆえに内だけを殺し、その兄弟は厚く撫した。
- 統は父の任により東宮に侍し、世祖は元舅の陽平王杜超の娘・南安長公主が生んだ女を統に娶らせ、車駕は自ら臨んで送り太官が供具を設え賜賚は千をもって計算された。高宗即位後は選部主客二曹を典り興安二年(453年)に卒し襄城王を贈られ景と諡された。子はなかった。
- 弟の弥娥は爵を襲ぎ北鎮都将を拝し卒し襄城王を贈られ恭と諡された。子の興仁は爵を襲いだ。