魏書卷三十四 列傳第二十二 陳建

白龍討伐で世祖を身をもって守る

  • 陳建は代の人。祖父の渾は太祖の末右衛将軍。父の陽は尚書。建は弓射に優れ三郎に抜擢され次第に下大夫・内行長に遷った。世祖が山胡の白竜を討った際、建はこれを甚だ軽んじ単騎数十騎を率いて山に登り険を臨んだが、毎日このようであったため白竜は壮士十余人を伏せておいた不意打ちに出て、世祖は馬から落ち危殆に至るところであった。建は身を挺して賊を防ぎ大声で叫んで奮撃し賊数人を殺したが、身に十余の傷を負った。世祖はこれを壮とし戸二十を賜った。
  • 高宗の初め阜城侯の爵を賜り冠軍将軍を加えられ幽州刺史として出て秦郡公を仮された。高宗は建が貪暴で懦弱であることから使者を州に遣わし杖五十の罰を与えた。高祖の初め尚書右僕射に徴され侍中を加えられ趙郡公に進爵した。
  • 建は侍中・尚書の晋陽侯・元仙、徳殿中尚書の長楽王・穆亮、比部尚書の平原王・陸叡とともに密表を上げて言った(要旨)。「皇天は徳を輔け、命は大魏に集まった。臣らの祖父は初興を翼賛し、勤めは蜀漢を過ぎ、誓いは山河のごとく固く、この盛福を享受し寵辱休戚は国と均しくしております。臣は凡近で識も遠達に至らず、先寵の階を頼み今の任を荷いました。彼我の識別についての批評が衆口に流布しており、上は生成の恩に感じ下は自ら策励しておりますが、駑鈍を省みるにつけ終には無益であることを痛感します。しかし飲冰驚寐(憂心すること)の実の思いをもって申し上げます。永嘉の末より封豕(暴逆な者)が横暴に噛みつき、桓玄・劉裕らが跋扈し禍難が相継いだ結果、岱宗(泰山)は望秩(祭祀)の敬を隔てられ、青徐(南朝の地)は見徳の風を限られてまいりました。献文皇帝(太祖)は幼くして竜飛し道が輝き、天下に武威を及ぼし淮海を暫く従わせ、車書はすでに一つとなり、華夏と夷狄がまさに一統されようとしていました。しかし昊天は憐れまず、たちまち万邦に背かれました。私かに聞くところ、劉昱(南朝宋の廃帝)は天に見放され権臣に殺されたとのこと、正を思う民は末永くこれを翹望しております。愚考しますに、時は再来せず機は失いやすいもの、わずかの差が千里の後悔を招きます。天が与えるものを取らねば、かえってその咎を受けるといいます、いわゆる『見て為さざるは介石にある者の過ちなり』(易経)とはこのことです。よろしく雄将を選び八方に号令すべきです。義陽王・臣昶(劉昶、南朝出身の亡命王)は存亡の理を深く悟り、遠く孫氏(呉)の例に同じており、もし歴運がこれに響応すれば呉会(呉の地)は定められるでしょう、たとえ事が成りがたければ振旅して帰還すればよいのです、進めば四海に義声を揚げることができ、退けば遐裔(遠方)に徳信を通じさせることができます、よろしくこの機に乗じられますよう、運は今日に集まっております、もし聖聴に叶うなら速やかに施行されますよう。もし天心に忤らうものであれば、臣の表をとどめて後の験を徐観していただき、その賞罰は然る後にお決めください」。
  • 高祖はこれを嘉し司徒・征西大将軍に遷り魏郡王に進爵した。高祖は文明太后とともにたびたび建の邸に幸し、建の妻を後庭の宴に賜った。太和九年(485年)薨じた。子の念は爵を襲ぎ中山守となったが良民を掠めたことを御史中尉の王顕に弾劾され、恩赦に遭ったが爵は除された。