魏書卷三十三 列傳第二十一 張蒲

丁零討伐に策を献じる

  • 張蒲(字は元則)は河南修武の人、本名は謨、のち蒲と改めた。漢の太尉・張延の後裔。父の攀は慕容垂の御史中丞・兵部尚書で清方をもって称された。蒲は若くして父の風があり文史に通じ端謹で知られ、慕容宝の陽平・河間二郡太守、尚書左丞となった。太祖が中山を平定した際、宝の官吏の多くが品秩を降されたが、太祖はもとより蒲の名を聞いていたためそのまま尚書左丞を拝した。
  • 天興中、蒲は清謹で方正なことから東部大人に遷り、のち太中大夫を拝した。太宗即位後は内都大官となり泰昌子の爵を賜り、庶獄に参決し私謁を行わないことから公正と称された。泰常の初め、丁零の翟猛雀が吏民を駆り立て逼め白澗山に入って大逆を謀った際、詔により蒲は冀州刺史・長孫道生らと討伐に赴いた。道生らは直ちに大軍で撃とうとしたが、蒲は「良民が猛雀に従っているのは乱を楽しむからではなく、みな凶威に逼られて力で服従させられているに過ぎない。今もし大軍でこれに臨めば、吏民は善に返りたくとも道がなくなり、また誅夷を恐れてかえって勢力を合わせて官軍に抗し、山に立て籠って愚民を惑わすことになる、その変は容易に図れなくなる。先に使いを遣わして諭し、猛雀に加担しなかった民には罪を問わないと告げるのが良い、そうすれば民は必ず喜んでみな降るだろう」と述べ、道生はこれを甚だ然りとし具に奏上した。太宗の詔により蒲は軍前で慰喩し、数千家が本属に還り蒲はみなこれを安集した。猛雀は親党百余人とともに逃げたが、蒲は道生らとともに猛雀を追い斬りその首を京師に送った。
  • のち劉裕が河表を寇竊すると蒲は南中郎将・南蛮校尉として平南大将軍・長孫嵩に隷しこれを防いだ。裕が長安に入ると還り、のち寿張に改められた。蒲の子は安平公・叔建とともに兵を率いて平原から東渡し劉義符の青兗諸郡を徇下し、詔により陳兵将軍・済州刺史を加えられ、また建とともに青州を攻めたが克たずに還った。
  • 世祖即位後、蒲は清貧で妻子の衣食も足りていなかったため相州刺史として出た。弱者を扶け強者を抑え善を進め悪を黜け教化が大いに行われ、始光三年(426年)州にて七十二歳で卒し吏民は痛惜した。蒲は謀臣の列にあってしばしば将となり、朝廷の清論では常に称首とされた。平東将軍・広平公を贈られ文恭と諡された。
  • 子の昭は志操があり、天興中功臣の子として太学生となり、太宗即位後は内主書となり、のち父の爵を襲いだ。神䴥中蠕蠕討伐に従い功により修武侯に進爵し平遠将軍を加えられ、延和二年(433年)幽州刺史として出て開府を加えられ寧東将軍を加えられた。時に幽州は年穀が実らず州倉も空になり民に菜色(飢えた顔色)が多かったため、昭は民吏に「なぜ私に徳がなくこの時に遭うのか」と語り、富者に貧乏な者を通済させ車馬を持つ家には外境から穀を糴(買い入れ)させ、貧弱な者には農桑を勧め、その年は大いに実り士女はこれを称頌した。任にあること三年で卒した。
  • 子の昶は爵を襲いだが早世した。昶の弟・霊符は真君八年(447年)中書博士に補された。和平中、咸陽郡の民・趙昌が聚党して逆を起こし百姓が騒動したため、詔により霊符が旨を宣べて慰喩すると民は業に復した。天安の初め中書侍郎に遷り昌国子の爵を賜り、延興中南豫州へ使いし風俗を観察した。太和四年(480年)建威将軍・広平太守を除せられ、還って尚書左丞・司州大中正となり、のち鎮遠将軍・斉州刺史を除せられ、十六年光州刺史に転じ立忠将軍を加えられ卒した。