柴壁の戦いに智謀を発揮した高官
- 谷渾(字は元冲)は昌黎の人。父の袞は膂力が人に優れ三百斤の弓を彎き勇は一時に冠絶した、慕容垂に仕えて広武将軍に至った。渾は若くして父の風があり任侠を好んだが、父母が存命であることから常に自ら控え目にし、晩くして節を折って経業を受け群籍を渉猟し儒者のような身なりをした。太祖の時、隷書に優れ内侍左右となり、太宗の世前鋒将軍に遷り河南に幸するのに従い、還って選ばれ東宮に給事した。世祖即位後は中書侍郎となり振威将軍を加えられ、赫連昌討伐に従い驍騎将軍となり、侍中・安南将軍に遷り儀曹尚書を領し濮陽公の爵を賜った。
- 渾は正直で操行があり、性質は苟合せず自分と意見の違う者には蔑ろにしたが、一方で旧故を重んじ富貴で人に驕ることはなかった、時人はこれを称えた。官にあって廉直で世祖に器重され、詔により渾の子孫で十五歳以上の者はすべて中書学生に補されることとなった。延和二年(433年)春に卒した。世祖はこれを悼惜し自ら喪に臨み厚く賻贈し文宣と諡された。
- 子の闡(字は崇基、小字は長命)は爵を襲ぎ若くして東宮に侍し次第に平南将軍・相州刺史に遷り、入って外都大官となり延興四年(474年)に卒し簡公と諡された。闡の弟・季孫は爵を襲ぎ中書学生より秘書中散に入り中部大夫に遷り、吐京鎮将として出た。
- 闡の子・洪(字は元孫)は若くして中書で学び、世祖は洪が機敏で祖父の風があるとして高宗の経の師に任じた。高宗即位後は旧恩により散騎常侍・南部長を拝し尚書に遷り滎陽公の爵を賜った。洪は性質が貪奢で僕妾の衣服は錦綺を用い財貨は千金を累ねたが、なお欲は募る一方であった。顕祖の舅・李峻らが初めて京師に至った際、官が給した衣服を洪が横領し有司に糾弾され、あわせて前後の贓罪を窮治され法に伏した。
- 子の頴は青州征東大将軍・広陵王羽の田曹参軍・員外散騎侍郎・給事中・尚書郎を歴任し威遠将軍を加えられ員外散騎常侍を除せられ、まもなく中散大夫に転じた。大軍の蜀征討に際し益州刺史・傅豎眼が別将として出た折、頴が権りに州事を行った。のち仮節・鎮遠将軍・涼州刺史を除せられたが行かず、太府少卿に改授され前将軍を加えられ、神亀二年(519年)に卒し平東将軍・営州刺史を贈られ貞と諡された。
- 長子の纂(字は霊紹)は学問に長け、解褐して太学博士となり侍御史を領し次第に著作郎・司州治中・黄門郎・散騎常侍に遷り、また侍中を兼ね殿中尚書を兼ね、驃騎大将軍・左光禄大夫・営州大中正に遷った。纂は先に著作を務め国史を監修していたが、緝綴(編纂)に手が回らなかった。
- 纂の弟・士恢(字は紹逹)は若くして琴書を好み、初め世宗の挽郎となり奉朝請を除せられ、正光中入侍して肅宗に寵待された。元乂の失脚と霊太后の反政に紹逹はこれに功があった。諫議大夫に遷り、まもなく通直散騎常侍・直閤将軍・鴻臚少卿に転じ元城県開国侯に封じられ食邑七百戸となった。太后の嬖幸・鄭儼は紹逹が帝との間を離間することを懼れ、しばしば話のついでに紹逹を州へ出そうと導いたが、紹逹は寵を耽って外に出ることを願わなかったため、太后は罪を誣告してこれを殺した。