魏書卷三十三 列傳第二十一 屈遵

北魏帰順の智者

  • 屈遵(字は子皮)は昌黎徒河の人。博学多芸で当時名が著しく、慕容永の尚書僕射・武垣公であった。永が垂に滅ぼされたのちは博陵令となった。太祖の南伐で車駕が魯口に幸した際、博陵太守の申永は南へ逃げ高陽太守の崔玄伯は東の海浜へ逃げるなど属城の長吏の多くが逃竄したが、遵は独り吏民に「昨年、宝の軍は大敗した、今また垂が征して還らない、これは天が燕を棄てたのであり燕人はこれに耐えられまい。魏帝は神武にして命世、寛仁で人をよく用い衆百万を号令すること一つのごとし、これは湯武の師である、私は帰命しようと思う、お前たちも励め、幸運に出会いながらこれを禍とするな」と告げ、太祖のもとへ帰った。
  • 太祖はもとよりその名を聞いておりこれを厚く礼遇し、中書令を拝して王言の出納を掌り文誥を総べさせた。中原平定ののち下蔡子の爵を賜り、駕に従い京師に還り卒した。時に七十歳。
  • 子の須は爵を襲ぎ長楽太守を除せられ鎮遠将軍を加えられ信都侯に進爵し卒し寧北将軍・昌黎公を贈られ恭と諡された。少子の処珍は爵を襲ぎ卒した。子の車渠は爵を襲ぎ高祖の初め東陽鎮将として出て卒し青州刺史を贈られ荘と諡された。

屈恒――「和当」の輔弼

  • 須の長子・恒(字は長生)は沈深で局量があり若くして家業を継ぎ書計に長じた。太祖の初め給事諸曹、太宗の世将作監に遷り京師の諸署を統べた。世祖即位後は次第に尚書右僕射に遷り侍中を加えられ、平涼を破った功により済北公の爵を賜り平南将軍を加えられ、のち中領軍に転じた。恭宗が東宮にあった間は恒が太子少傅を領し、のち諸軍を督して東伐し征東大将軍に進号した。師が和竜に次すると馮文通は牛酒を送って軍を犒ったが、その甲三千を献じつつ侍子を送らなかったことを恒は責め王命をもって数え上げ、ついに男女六千口を掠めて還った。
  • 恒は宮にあって公正、内外にその平当が称えられた。世祖はこれを信任し大政を委ね、車駕の出征の際は常に中に居って留鎮させ、襄城公盧魯元とともに甲第を賜った。世祖はたびたび臨幸し賞賜も厚かった。真君四年(443年)馬から墜ちて卒した。時に五十五歳。折しも世祖は陰山に幸しており恭宗は使者を伝で遣わし状を奏したところ、世祖は甚だ悼惜し使者に「お前たちは朕の良臣を殺した、馬に何の用があろうか」と告げ、歩いて帰らせた。征西大将軍を贈られ成公と諡された。
  • 長子の観は早世し、世祖はこれを憐れみその子に男爵を賜った。観の弟・道賜は爵を襲ぎ若くして父の任により内侍左右となり次第に主客に遷り尚書に進み散騎常侍を加えられ、騎射に優れ機弁で辞気があり世祖に甚だ器とされた。蓋呉討伐に従い尚書右僕射に遷り侍中を加えられたが、還る際に雁門で急病により卒し哀公と諡された。子の抜は爵を襲いだ。
  • 抜は若くして陰陽学を好み、世祖はその父祖を追思し十四歳で南部大人とした。世祖の南伐で劉義隆の将・胡盛之を擒えて抜に付したが、抜は酒に酔って気づかぬ間に盛之が逃げてしまった。世祖は大いに怒り斬るよう命じ将に処刑されようとした際、世祖は「もし恒の霊があって子孫のことを問われたら、朕はどう答えればよいのか」と悲しんで言い、抜を赦して散大夫に免じた。のち顕祖はその功臣の子として営州刺史を拝し卒した。子の永興は爵を襲いだ。