魏書卷三十 列傳第十八 邱堆

赫連定の擒縛の際に軍を失い誅される

  • 邱堆は代の人。容儀が美しく忠謹をもって親侍された。太宗即位後は左右の遺を拾い、次第に散騎常侍に遷った。叔孫建らとともに山胡を討滅し、劉裕が河を遡って西伐した際は詔により堆に建とともに河内から枋頭に次させ寇盗に備えさせた。姚泓が滅んだのち堆は并州に留鎮し、赫連屈孑が三千騎を遣わして河西に寇すると堆は并州から游撃将軍王洛生とともにこれを撃退し、功により侯の爵を賜った。
  • 世祖の監国・臨朝の際、堆は太尉穆観らとともに右弼となった。世祖即位後は臨淮公に進爵し鎮西将軍を加えられ太僕に徙った。世祖の赫連昌征討では堆は常山王素とともに歩兵三万を督して後継となったが、昌は戦に敗れて南奔した。世祖は堆に宗正・娥清とともに五千騎を率いさせ関右を略地させたが、昌貳城の守将が堅守して下らず、堆は清とともにこれを攻拔した。
  • 詔により堆に班師を命じたが、宜城王奚斤は堆らを留めて昌の平定を進めるよう上表し許された。堆と斤は軍を合わせて昌と対峙し士馬の糧を撃った。堆は義兵将軍封礼とともに民間に租を督させたが士卒が略奪をほしいままにしたため昌に襲われ敗績した。堆は数百騎を率いて城に還った。斤が赫連定を追撃した際、堆を残して輜重を守らせたが、斤は定に擒えられ、堆はこれを聞いて甲を棄てて長安へ逃げ、さらに高涼王礼とともに守りを棄てて東の蒲坂へ逃げた。世祖は大いに怒り西平公安頡を遣わして堆を斬った。延和の初め詔に「堆は国の肺腑(近親の重臣)にして先朝に勲を著したが、西征で師を喪ったため軍法に従うこととなり、国は除かれ祀りも絶えた、朕はこれを甚だ憐れむ、その子の跋に淮陵侯の爵を賜り安逆将軍を加えるがよい」とあった。跋はのち蓋呉討伐に従い戦没した。
  • 子の麟は爵を襲ぎ駕部令を歴任し瑕邱鎮将として出て平南将軍・東海公を仮され東兗州刺史に遷り官にて卒した。