辺境防衛の功
- 楼伏連は代の人。世々酋帥であった。伏連は忠厚で器量があり、十三歳で父の位を襲ぎ部落を領した。太祖の初め賀蘭部征討に従い、また中山平定に従い太守となって逆賊の張翹を斬った。姚平征討に柴壁で従軍した功により安邑侯の爵を賜った。太祖の時、晋兵将軍・并州刺史として、伏連は西河の胡・曹成ら七十余人を招誘し赫連屈孑の吐京護軍及びその守卒三百余人を襲殺し、あわせて叛胡の阿度支ら二百余家を擒えた。太宗はこれを嘉して成らに将軍を拝し爵を列侯に賜り、伏連を内都大官に徴した。
- 世祖即位後は広陵公に進爵し衛尉に転じ光禄勲に徙った。世祖の蠕蠕征討では伏連は京師に留鎮し、王に進爵して平南大将軍を加えられ、また節を仮され都督河西諸軍事・鎮西大将軍として統万に出鎮した。真君十年(449年)に薨じ、恭王と諡された。
- 子の真は爵を襲いだが公に降された。世祖の征伐に従い功があり官は散騎常侍・尚書・安北将軍に至り、湘東公に徙封され涼州征討に従ったが帰路で卒し、荘公と諡された。子の干は爵を襲いだが侯に降された。
- 真の次弟・大抜は尚書・散騎常侍・征西将軍を歴任し永平侯の爵を賜り、高祖の初め中都大官となり卒し、平東将軍・定州刺史を贈られ康と諡された。子の禀(字は法生)は爵を襲ぎ太子宮門大夫を拝し、次第に趙郡太守に遷り任期満了で京に還り、冠軍将軍・城門校尉を除せられ、征虜将軍・平城鎮将として出て朔州刺史に遷り、なお本官のまま入って衛尉少卿となり、五十八歳で卒し、撫軍将軍・恒州刺史を贈られた。子の貴宗は武定中に伏波将軍・開府水曹参軍。
- 伏連の兄の孫・安文は平涼征討に従い功があり霸城男の爵を賜り虎威将軍を加えられ、のち三郎幢将に遷り卒した。高祖の初め、その子・毅の貴により安東将軍・冀州刺史・陽平公を追贈され定と諡された。
- 毅は内外の官を歴任し次第に殿中尚書・散騎常侍に遷り常山公の爵を賜り安南将軍を加えられ、尚書右僕射に遷り反人・梁衆保を擒えた功により侍中を加えられ本官はそのままとし、のち例により降されて侯となり、使持節・鎮東将軍・定州刺史として出た。太極殿が完成し考室の礼を行おうとして群臣を集めた際、雪が降ったため饗えなかった。高祖は「朕は正殿の造営を始め功は初めて成った、百寮を集めて大礼を行おうとしたのに雲が重なり霏雪が急に降った、朕の寡昧が天の心に応えられなかったためだろう、この不徳の咎はどこにあるのか、卿らはそれぞれ思うところを述べて朕の至らなさを匡すように」と述べた。毅は稽首して「雪霜風雨は天地の常、夏の霖雨・冬の霰は四時の恒なる節、今、隆冬に雪が降るのはまことに時宜に適ったこと。また礼には『雨に沾れて服が容を失えば礼を廃す』とあり、古来そのようなものであり異とするに足りません」と答えた。高祖は「昔、劉秀が滹沱を渡ろうとした際には氷が張った、ただ朕の徳は古人に及ばず天意に感応できなかっただけのことだ」と述べた。
- のち都督涼河二州鄯善鎮諸軍事・涼州刺史に転じた。車駕の南伐(南斉討伐)に際し毅は上表して「六軍が動き荊揚の罪を問い、淮表を甌越(南方)と同様に慰撫しようとしていると承っておりますが、私の愚見では私かに未だ安心できません。京邑(洛陽)は新たに遷り、百姓は業を変えたばかりで公私ともに草創の状態、生計は乏しく、加えて昨年は不作で民に飢饉が多いのです。ふとしたきっかけで嘆きも起こりやすい折、天道は悠長です、時に順って徳を養うべきです、願わくは激しい行動を抑えて後日を待たれますよう」と諫めた。詔に「時は自ずと来ず、人に因ってこそ合う、今年の人事は昔年とは異なる、株を守る(旧習に固執する)ような言はもう止めるがよい、陽九(災厄の年回り)に乗じて渉ることの利は卿の知るところではあるまい」とあった。太和二十一年(497年)に卒し、銭二十万・布二百匹を賜った。