魏書卷二十八 列傳第十六 古弼

古弼(代の人、?–452年頃)は太宗・世祖・恭宗の三代に仕えた剛直な諫臣。侍中・尚書令を歴任し、赫連定・馮文通・仇池の討伐で功を挙げる一方、遊猟に興じる世祖を諫めるため無礼を働いてでも直言を貫き「筆公」と称された。世祖崩後、高宗の即位に際し議が旨に合わず免官され、家人の巫蠱告発を受けて誅に伏した。時人はこれを寃と思った。

剛直な諫臣

  • 古弼は代の人。若くして忠謹で読書を好み、また騎射に優れた。初め猟郎として長安に使いし旨に称い、門下奏事に転じ敏正をもって著された。太宗はこれを嘉し「筆」の名を賜り、その率直で有用な性を取った。のち改めて「弼」と名付けられたが、これは輔佐の材であることを言うものである。
  • 弼は西部を典り劉潔らとともに機要を分綰し百揆を奏上した。世祖即位後、功により立節将軍を拝し霊寿侯の爵を賜り、并州の叛胡を征して還ると侍中・吏部尚書に進み南部を典り奏事した。安原とともに東部の高車を已尼陂で降し、また劉潔とともに五原河北に屯して叛民に備えた。安西将軍を拝し赫連定征伐に従軍。駕が平涼に至り涇南に次した際、弼を侍中の張黎とともに平涼を撃たせ、赫連定は安定から歩騎二万を率いて救援に来たが弼らと遭遇すると弼は偽って退いてこれを誘い、世祖は高車勅勒に馳撃させ数千級を斬った。弼は勝ちに乗じて安定を取った。
  • また永昌王健らとともに馮文通を討ち、文通は城に籠って固守したため弼はその禾を刈って還った。のち再び文通を征すると文通は高句麗に救を求め、高句麗の救援が至ると文通は東奔しようとしたが民の多くはこれを憂えた。その大臣の古埿は民心が東奔を欲しないことに乗じて文通を攻め、城門を開いて官軍を引き入れようとしたが、弼は古埿の詐りを疑い入城しなかった。高句麗軍が至ると文通はこれに随って逃げた。文通の出奔に際し婦人に甲を着せて中央に置き、精鋭と高句麗の陳兵を外に配していた。弼の部将・高苟子が騎を率いて賊軍を衝こうとしたが、弼は酒に酔い刀を抜いてこれを止めたため文通は東奔を果たした。将士はみな弼が撃たなかったことを怨んだ。世祖は大いに怒り召還して広夏門卒に落としたが、まもなく再び侍中となり、尚書の李順とともに涼州に使いし、安西将軍を拝し建興公の爵を賜り長安に鎮して威名著しかった。
  • 涼州征討の議に際し弼は李順とともに「涼州は水草が乏しく師を行うべきでない」と言ったが世祖は従わなかった。姑臧を克ち終えたのちやや弼を嫌ったが、その将略を認め責めることはなかった。
  • 劉義隆が将の裴方明らを遣わして南秦王楊難当を撃った際、難当は救援を請うたが兵が至らぬうちに難当は上邽へ逃げ、方明は仇池を克って楊玄の庶子・保熾を立てた。ここに弼を持節・督隴右諸軍とした。義隆はその秦州刺史・胡崇之を仇池に屯させたが、弼は平西将軍元斉とともに崇之を濁水で邀えて陣中で擒えた。崇之の衆は漢中へ逃げ帰った。弼らは祥郊山南から入り東道の将・皮豹子らと仇池を討った。永安侯賀純を遣わし義隆の塞狭道を攻めさせると守将の姜道祖は狭亭に退いて守ったが、諸将は山道が険峻で折しも雪深く用馬に不便であることから遅留して進まなかった中、弼だけは進軍し元斉・賀純らに狭亭を撃たせ道祖は南走、仇池は平定された。まもなく諸氐は再び楊文徳を主に推して仇池を囲んだが、弼は上邽・高平・沂城の諸軍を発してこれを討ち、仇池の囲みは解け文徳は漢川へ逃げた。
  • 時に皮豹子は関中の諸軍を督し下辨に次していたが、仇池の囲みが解けたのを聞き還軍しようとした。弼は豹子に「たびたび賊軍を破ったが、彼らの君臣はいまだ大局の分をわきまえておらず、敗を恥じて報復に来るやもしれぬ。もし班師すれば寇衆が再び至って後の対処が難しくなろう。兵を繕い甲を練って力を蓄え待つべきだ、秋冬を出でずして南寇は必ず来る、逸を以て労を待つ百勝の策だ」と使いを送って伝え、豹子は思い留まった。世祖はこれを聞いて「弼の言は長策である、南秦を制するにあたり弼の謀は多い」と述べた。
  • 恭宗が万機を総摂すると弼は東宮四輔に徴され、宜都王穆寿らとともに政事に参与した。詔により弼は東宮の保傅として老成の勤めがあるとされ帛千匹・綿千斤を賜り尚書令に遷った。弼は事務が繁多でも読書を怠らず、端謹慎密で禁中の事を口外しなかった。功名は張黎に等しかったが廉潔はこれに及ばなかったという。
  • 上谷の民が上書して苑囿が過度に広く民に田業がないと訴え、大半を削って貧民に賜るよう乞うた際、弼はこれを見て陳奏しようとしたが、世祖は給事中の劉樹と碁を打ち聴く志がなかった。弼は侍座して久しく待ったが埒が明かず、ついに世祖の御前で樹の頭を捽んで床から引き摺り下ろし、手でその耳を搏ち拳でその背を殴って「朝廷が治まらぬのはまことにお前の罪だ」と言った。世祖は失色して碁を放り「奏事を聴かなかったのは実に朕の身にある罪、樹に何の罪があろうか、放っておけ」と言い、弼は具状を奏上した。世祖はその公直を竒として奏上をすべて許し百姓に賜ったが、弼は「臣として君前でその志を逞しくする者は罪なきにあらず」と述べ、公車に詣でて冠を免じ徒跣で自ら弾劾し罪を請うた。世祖は使者を遣わして召し、弼が至ると「卿はその冠履を着けよ、朕が聞くところ社の祭祀は蹇躓してこれを築き端冕してこれに事えれば神はこれに福を与えるという。しかれば卿に何の罪があろうか。今後、社稷を利し国を便し民を益するものであれば、たとえ顛沛造次であろうと卿はそれをなせ、憚る必要はない」と述べた。
  • 世祖が大閲し河西に将校を狩に行かせた際、弼は留守し、詔により肥馬を騎人に給するよう命じたが、弼は弱馬を給した。世祖は大いに怒って「尖頭奴め、朕を裁量するとは、朕が台に還ればまずこの奴を斬る」と言った(弼は頭が尖っていたため世祖はいつも「筆頭」と呼び、当時の人は「筆公」と呼んだ)。弼の属官は懼れて誅を恐れたが、弼は「私は君に事えるとは、遊猟に興ずるのに適さぬことをさせるのは小罪、不虞に備えず戎寇を恣にさせるのは大罪と考える。今、北狄は熾んで南虜も滅びておらず、狡猾な志が辺境を窺っている、これが私の憂いなのだ。ゆえに肥馬を選んで軍実に備え不虞の遠慮としたのだ、国家に利があるなら私は死をどうして避けようか。明主は理をもってこれを了解されよう、これは私一人の罪であり卿らの咎ではない」と告げた。世祖はこれを聞いて歎じ「このような臣がいるとは国の宝である」と述べ、衣一襲・馬二匹・鹿十頭を賜った。
  • のち車駕が山北で狩をして麋鹿数千頭を大いに獲た際、詔により尚書に車牛五百乗を発してこれを運ばせようとしたが、世祖は従者に「筆公はきっと私に協力しないだろう、お前たちは馬で運ぶほうが速い」と言い、還幸して百余里進んだところで弼の上表が至り「今、秋穀は黄ばみつつあり麻菽が広がっている、野猪や鹿がこれを食い荒らし鳥雁がこれを侵し、風波の損耗も朝夕にわたり参倍に及ぶ、乞い願わくは矜緩を賜り収載を得させたい」とあった。世祖は左右に「筆公は果たして朕が予想した通りだ、社稷の臣と言えよう」と述べた。
  • 初め楊難当が来降した際、詔により弼にその子弟をすべて京師に送らせたが、楊玄の少子・文徳が黄金四十斤を弼に賄賂として贈ったため、弼は金を受けて文徳を留め置きながら無礼に扱った。文徳は劉義隆のもとへ逃げ込んだ。世祖は弼の正直と戦功をもって罪を加えなかった。
  • 世祖が崩じ呉王が立つと弼は司徒とされたが、高宗即位後、張黎とともに議が旨に合わず免官された。怨謗の言があったとされ、その家人が巫蠱を告発され、ともに法に伏した。時の人はこれを寃と思った。