清廉な輔弼、最後は誅殺
- 張黎は雁門平原の人。書計に優れ太祖に知られ待遇された。太宗はその忠亮を器とし広平公の爵を賜り機要を管綜させた。世祖はその功旧を輔弼に任じ大司農卿とし、軍国の大議には常に黎が参与した。鎮北将軍を加えられ、赫連定征討の功により征北大将軍に進号し、楽安王範・済南公崔と長安に鎮し清約公平をもって聞こえ、離任の日には家に余財がなかった。
- 世祖の詔により黎は兵一万二千人を領し莎泉道を通した。車駕が涼州を征する間、蠕蠕の呉提が虚に乗じて寇したため、黎は司空道生とともにこれを拒撃した。
- 恭宗が初めて百揆を総べた際、黎は東郡公崔浩らとともに輔政し、上に忠を尽くし公事以外を口にしなかった。詔に「侍中広平公黎・東郡公浩らは東宮を保傅し老成の勤めがあった、朕は深くこれを嘉する、布帛各千匹を賜り旧勲を褒める」とあった。恭宗が東宮で薨じた際、黎は太尉を兼ね持節して策を奉じ諡を賜った。
- 呉王余が立つと黎は太尉とされたが、のち議が旨に合わず免官され、古弼とともに誅された。
史論
- 史臣は言う。和䟦・奚牧・莫題・賀狄干・李栗・劉潔らはみな忠勤と征伐の功があり、任遇もことのほか厚かったが、みな誅滅に至った。岳は危難の中に身を投じ、草創の際に事に従い、智勇ともに発揮して功名が挙がった、まことに良将の材であった。弼は軍を謀り国を輔け遠略に正しい情があり、柱石の量があった。張黎は誠謹にして方正を兼ね、功旧が重んじられながらも、些細なことで一朝にして殞れた。宥恕が十世に及ぶという恩典もついに言葉だけに終わった、惜しむべきことである。