魏書卷二十八 列傳第十六 劉潔
劉潔(長楽信都の人、?–450年頃)は太宗・世祖の二代に仕え尚書令・鉅鹿公に至り、蠕蠕討伐・北涼討伐などで軍略を献じて重用されたが、権勢を恃んで専横し、蠕蠕討伐で詔を矯めて諸将の期日を狂わせた咎に加え、密かに楽平王擁立を図って図讖を求めたことが発覚し、三族を夷され誅殺された。
才を恃み権を弄して滅ぶ
- 劉潔は長楽信都の人。祖父の生はやや卜筮に通じていた。昭成帝の時、慕容氏が女を献じて公主とした際、公主家の臣としてともに入朝し、妻を賜り子をもうけた。父の提は太祖の時、官は楽陵太守に至り信都男の爵を賜り卒した。
- 潔は性質が強力で智数に富み、しばしば征討に従って功を立て会稽公に進爵した。河西の胡・張外と建興王紹らが聚党して逆となると、潔は永安侯魏勤とともに衆三千を率いて西河に屯し鎮撫した。また勤及び功労将軍元屈らとともに吐京の叛胡を撃ったが、離石胡の出以眷が屈丐の騎を引いて山嶺を断截し潔を邀えた。潔は馬を失い山に登って力戦し、矢刃も尽きて胡に捕らえられ屈丐のもとへ送られたが、声気は撓まず字を呼んで語り神色自若としていたため、屈丐は壮としてこれを釈した。のち帰国を果たし東部の事を典った。
- 太宗の寝疾に際し世祖が監国すると、潔は古弼らとともに東宮に侍し機要を対綜し百揆を奏上した。世祖即位ののち、謀反を告げる者があった際に直言をなして機に称い、柱石の用ありと竒とされ大任を委ねられた。軍国の議に際し朝臣もその能を推し、尚書令に超遷し鉅鹿公に改封された。
- 世祖が蠕蠕の大檀を雲中で破った際、潔は「大檀は衆を恃んでいたが破れて胆を奪われ奔走した、往時の敗を恐れずまた死に赴くとは考え難い。田を収めてのち一挙に東西並進して二道より討つべきだ」と進言し、世祖はこれに従った。のちの大議で征討を論じた際には、まず馮跋を平らげるべきと言ったが世祖は従わなかった。
- 新民(新たに帰服した民)が将吏の侵奪に怨言を漏らし牛馬が肥え草が茂れば漠北へ赴くと言っていたことに対し、潔は左僕射の安原とともに、河氷が解けぬうちに河西へ徙し氷解後は北へ遁げられぬようにすべきと奏したが、世祖は「この者たちは放散した習俗が久しく、園中の鹿のようなもの、急げば衝突し緩めれば落ち着く、朕には自ら処する道がある、徙す必要はない」と述べた。潔らが固執したためついに三万余落を河西の白塩池まで分徙することとなったが、新民は驚駭し「われらを河西に圏うのはわれらを殺すつもりか」と言って涼州へ西走しようとした。潔は侍中の古弼とともに五原河北に屯し、左僕射の安原は悦拔城の北に屯してこれに備えた。まもなく新民数千騎が北走し、潔がこれを追討すると、逃げる者は糧が絶えて相枕して死んだ。
- 折しも南方諸州が大水で百姓が飢えたため、潔は上奏(要旨)「天地は至公にして万物みな育ち、帝王は無私にして黎民が戴頼する。陛下は神武の姿をもって重光の緒を継ぎ、大業を恢隆され、威の振うところ服さぬ者なく、恩沢の洽きところ懐かぬ者なし。太平の治はまさにここにある。しかし辺寇が内侵し戎車がしばしば出動する中、郡国の民は征討には遭わずとも農桑に勤め軍国を支える経世の大本、府庫の資である。山東の一帯は水害に遭い数年不作で他所に食を求めている。率土の浜、王臣たらざるはなし、哀矜をもって覆育を加えるべきだ。今、南は強寇を摧き西は醜虜を敗り四海晏如、人神が協暢する折、兆民とともにその福を饗せば、恵みは和気に感じ蒼生は悦楽するであろう」。世祖はこれに従い、天下の二歳分の租賦を復した。
- 潔は楽平王丕とともに諸軍を督し上邽を取り、軍が啓陽に至ると百姓は争って牛酒を送った。潔が上邽に至ると諸将はみなその豪帥を斬って王威を示そうとしたが、潔は聴かず秦隴を撫慰し秋毫も犯さず人々は安んじて業に就いた。世祖が隴右の騎卒を発して東の高句麗を伐とうとした際、潔は「隴土の新民はいまだ大化に染まったばかり、優復を賜り兵馬を豊かにしてから用いるべきだ」と進言し、世祖はこれを深く納れた。
- 車駕の西伐(北涼討伐)に際し潔は前鋒となった。沮渠牧犍の弟・董来が万余人を率いて城南で拒戦した際、潔は卜者の「日辰協わず」との言を信じて撃鼓を控えたため後軍が進まず、董来は入城を果たし、世祖はやや潔を嫌うようになった。
- のち潔は建寧王崇とともに諸軍を三城の胡部で督し兵六千を簡んで姑臧を戍らせようとしたが、胡が命に従わず千余人が叛走したため潔と崇はこれを撃ち誅し男女数千を虜とした。潔は朝夕枢密にあって深く委任されていたが、性質が剛直で寵を恃み専らにしたため世祖の心はしだいに不平となった。
- 蠕蠕討伐の議に際し潔は反対で「虜は邑居がなく遷徙は常なし、前に出兵しても得るものがなかった、広く農を興し穀を積んで来るのを待つほうがよい」と世祖に述べ、群臣もみなこの議に従ったが、世祖は決行を望み崔浩に問うと浩は固く討伐可能と述べ、世祖は浩の議に従った。出陣ののち諸将と鹿渾谷での会合を期したが、潔はその計が用いられなかったことを恨み諸将を沮もうと詔を矯めて期日を改めたため、諸将は至らなかった。時に虜衆は大いに乱れており恭宗が撃とうとしたが潔は不可と執った(詳細は帝紀にある)。鹿渾谷に六日停まり諸将なお進まぬうちに賊はすでに遠く遁げ、石水まで追ったが及ばず師を還した。漠中に次して糧が尽き士卒の多くが死んだ。潔は密かに人を使って軍を驚かせ、世祖に車を棄てて軽装で還るよう勧めたが世祖は従わなかった。潔は軍行が無功であったことについて崔浩に罪を帰そうとしたが、世祖は「諸将の後期や賊を撃たなかった罪は諸将にあり、浩にあるのではない」と述べた。
- 浩がさらに潔の矯詔の一件を告げたため、輿駕が五原に至った際に潔を収めて幽閉した。世祖の征討の際、潔は密かに親しい者に「もし軍が出て無功に終わり車駕が還らなければ、私は楽平王を立てるつもりだ」と語り、また右丞の張嵩を使わして図讖を求め「劉氏が応じて王となり国を継ぐというが、私に果たして名姓があるか」と問わせた。嵩は「姓はあるが名はない」と答えた。窮治款引の末に嵩の家を捜索すると果たして讖書が出てきた。潔は南康公狄隣及び嵩らとともにみな三族を夷され、死者は百余人に及んだ。潔は権勢の要にあって威福を擅にし、阿附する者は昇進し忤り恨む者は黜免され、内外がこれを憚り側目して見た。虎牢を破り国を破った際にも財貨を聚斂して潔と分けており、その家産を籍すと巨万に及んだ。世祖はのちのちまでこれを追忿し語れば切歯した。