魏書卷二十四 列傳第十二 燕鳳
出自と経歴
燕鳳、字は子章。代の人。学問を好み経史・陰陽緯讖に通じ、昭成はその名を聞いて礼を尽くして招いたが応じなかったため、諸軍で代城を包囲し「燕鳳が来なければ屠る」と迫り、代人は鳳を差し出した。昭成は鳳と語り大いに喜び賓礼で迎え、代王左長史として国事に参与、獻明帝の教育も担った。苻堅の使者牛恬の来朝に際し鳳が答礼の使者となり、堅と代の国力について問答した(控弦の士数十万・馬百万匹に及ぶという鳳の説明、雲中川の広大さの実例)。
昭成崩御に際し太祖が幼弱で長安へ遷ろうとしたとき、鳳は苻堅に「劉庫仁は勇智あるも、衛辰は狡猾で共に単独では任せがたい、両者に分割統治させ孫が成長するまで待つべき」と進言し容れられた。太祖即位後、吏部郎・給事黄門侍郎・行台尚書を歴任し重用され、太宗の世には崔𤣥伯・封懿・梁越らと共に経伝を講じ朝政を議した。世祖初め旧勲により平舒侯・鎮遠将軍を賜り、神䴥元年(428年)卒した。子の才は散騎常侍・平遠将軍で卒し、孫の元孫は博陵太守で卒し、その子世宗が襲爵した。