魏書卷二十四 列傳第十二 許謙

出自と経歴

許謙、字は元遜。代の人。文才があり天文図讖の学に長け、建国の頃に一族を挙げて帰附し、昭成に代王郎中令兼掌文記に任じられ、燕鳳と共に獻明帝に経学を授けた。衛辰征討の功で僮隷三十戸を賜った。昭成崩後は長安に移り、苻堅の従弟行唐公洛の招きで和龍に赴いたが継母の老いを理由に辞し、登国初め太祖のもとへ帰した。太祖は喜んで右司馬とし、張衮らと共に国の基礎を固めた。

慕容寳の侵攻に際し、太祖の命で姚興に急を告げ、援軍を率いる楊佛嵩の進軍が遅いのを促す書を代筆し、佛嵩は昼夜兼行で駆けつけた。太祖は謙に関内侯を賜い、佛嵩との盟約(殷湯の鳴条の誓、周武の河陽の盟に擬えた文言)を執筆させた。慕容垂の再侵攻に際しても姚軍の招致を託されたが、垂が退いたため事なきを得た。垂の死後、謙は太祖に即位を勧める上書を行った。并州平定後、陽曲護軍・平舒侯・安遠将軍となり、皇始元年(396年)、享年六十三で卒し、平東将軍左光禄大夫幽州刺史髙陽公・諡文を追贈された。

子の洛陽は襲爵し慕容寳討伐で冠軍司馬、のち祁令、太宗が父の功を追録して鴈門太守とした。家の田に嘉禾が生じたことで北地公・鎮南将軍に進み、明壘鎮将として八年務め卒し、諡は恭。子の寄生は爵を降して侯となり皇興元年(467年)卒。洛陽の弟安国は中山太守。安国の弟安都は廣甯・滄水二郡太守・揚威将軍・東光子となり天安初め卒し、平遠将軍冀州刺史東光侯・諡烈を追贈された。子の白虎は襲爵し侍御中散となったが罪により免官・奪爵された。