魏書卷二十三 列傳第十一 莫含
出自と経歴
莫含は鴈門繁畤の人で、代々商業により巨万の富を築いた。劉琨の下で従事を務め、辺境近くで代国と往来していた。穆帝はその才器を愛し、代王として官制を整えた際、琨に莫含を求めた。含は望まなかったが、琨は「今は諸夏が滅び百姓が流離する中、代王の力に頼るしかない」と説得し入国させた。含は代王の腹心となり、琨が五縣の民を陘南に移した際も含の家だけは留まった。莫含は左将軍関中侯に至って没し、その旧宅は桑乾川南にあり「莫含壁」(訛って「莫回城」)と呼ばれた。
子の顕は昭成の世に左常侍を務めた。顕の子題も謀略に長け、太祖の慕容寳討伐で戦功を挙げ東宛侯に封じられたが、宴席で李栗の不敬に連座し黜けられ、のち平城の宮室造営を監督したが、太祖の意に背き賜死された。題の弟雲は学問と射芸に優れ、太祖の代に選曹を掌り安徳侯となり、世祖の赫連昌討伐でも功を立て安定公・鎮西大将軍に至り、神䴥中に没し、諡は敬公。