魏書卷二十三 列傳第十一 衛操
出自と経歴
衛操、字は徳元。代の人。少壮より通侠で才略があり、晋の征北将軍衛瓘の牙門将として代の国政に関与した。始祖(拓跋力微)の崩後、従子の雄や宗族の姬澹ら十数人と共に帰国し、桓帝・穆帝に晋人の招納を説いた。晋人の帰附が増え、桓帝はこれを喜んで輔相とし国事を任せた。劉淵・石勒の乱に際し桓帝に晋を助けるよう勧め、東嬴公司馬騰から将号を加えられ右将軍・定襄侯に至った。
桓帝の崩後、操は大邗城南に功徳を頌える碑を立てた。碑文は桓穆二帝が魏(軒轅)の末裔であること、その治国・軍事・仁政の様子、晋室のための出兵、劉淵・石勒の乱への対応、東嬴公司馬騰の要請に応じた援軍派遣(参軍壺倫・中行嘉・衛謨・衛鞬らの使者往来、汾東での盟約)、太原・西河・楽平・上黨の救援、鄴への進軍などを詳述する。操は永興三年(307年)六月二十四日、三十九歳で没した。碑文にはその死を悼む言葉や、桓帝自身の晋への忠節と死(隆冬の遠征での発病)を悼む文言も含まれる。晋朝は桓帝に「義烈」の諡を贈り祭祀した。この碑文は皇興初め(467年頃)、雍州別駕鴈門の叚榮が大邗で発掘し記録に残したものである。
操とともに帰国した宗族・郷親には衛懃(安樂亭侯)・衛崇・衛清(都亭侯)・衛沉・叚繁(信義将軍都亭侯)・王發(建武将軍都亭侯)・范班(折衝将軍廣武亭侯)・賈慶(建武将軍上洛亭侯)・賈循(都亭侯)・李壹(関中侯)・郭乳(関内侯)らがあり、いずれも桓帝から任命された。六修の乱の際、多くは劉琨に従った任子遵に随って南へ逃れた。衛雄・姬澹・莫含らの名は碑に見える。
雄(字は世遠)・澹(字は世雅)はともに勇健で計略に富み、晋の州従事から操と共に入国、桓帝に将として重用され戦功を挙げた。六修の逆で国内が乱れると、新参者が殺されるとの噂に晋人・烏丸人が動揺し、雄・澹は任子遵とともに烏丸・晋人数万を率いて南へ叛き劉琨のもとへ走った。劉琨は石勒討伐にこの兵を用いようとしたが、雄・澹は「疲弊した民をすぐに用いるべきでない」と諫めたものの容れられず、石勒に大敗、澹は敗走の末に石勒配下の孔萇に討たれた。