魏書卷二十二 列傳第十 京兆王愉

出自と経歴

京兆王愉、字は宣徳。太和二十一年(497年)に封じられ、徐州刺史として都督された。長史盧陽烏に州事を委ね、世宗即位後は宮中で兄弟と親しく起居していた。順皇后の妹を妃に迎えたが不仲で、徐州で得た李氏の妾(東郡楊氏の出)を寵愛し子寶月を儲けた。順皇后がこれを怒って李氏を尼にさせ、子は妃に養わせたが、后の父于勁の勧めでのち愉に戻された。愉は文才を好み文人を招いて宴を開き、財を惜しまず散施した。弟の廣平王懐と奢侈を競い合い、世宗に禁中で杖罰を受け冀州刺史に左遷された。恨みと妾の頓辱への不満から州で謀反を起こし、長史羊靈引・司馬李遵を殺し、髙肇の謀殺を捏造して信都で即位を宣し、建平元年と号して李氏を皇后とした。世宗は李平に討伐させ、愉は敗れて城に籠り、最後は李氏と四子を連れて逃れる途中で捕らえられた。護送中も李氏との情を通わせたが、野王に至り「至尊の慈悲でも生き延びられまい」と嘆いて絶命した(髙肇の指示による他殺説もある)。諸子は洛陽で赦され、のち靈太后の令で属籍に復し、愉は臨洮王を追封され、子の寶月が改葬して父母に三年の喪を服した。寶月の弟の寶炬は軽躁で酒色に耽ったが、莊帝時に南陽王に封じられ、出帝の関中没落に随行し、のち宇文黑獺が出帝を害したのに乗じて自ら帝位を僭称した(西魏の建国)。