魏書卷二十二 列傳第十 清河王懌
出自と経歴
清河王懌、字は宣仁。幼くして聡明で容姿に優れ、孝文帝に愛され、彭城王勰も「風神卓越、いずれ二南(周南・召南の徳)に比すべき」と評した。経史に博通し文才に富み、寛仁で喜怒を色に表さなかった。太和二十一年(497年)封じられ、世宗初め侍中、のち尚書僕射として明断で名声を得た。司空髙肇は帝舅として権勢を握り、良宗(賢臣)を除こうとして懌や愉を讒言、愉の乱に乗じてさらに彭城王勰を陥れた。懌は身の危険を感じつつも、宴席で髙肇に「王莽の簒奪」に喩えて諫め、また「器と名は人に仮すべからず」と上言して権臣の専横を戒めた。
肅宗初め太尉侍中として門下の政務を裁いた。呪術で病を治すという僧惠憐が靈太后の厚遇を受けたことに対し、懌は漢末の張角の乱を引いて上表諫止した。靈太后は懌を叔父として厚く信任し朝政を委ねたが、領軍元乂(太后の妹婿)が驕慢で懌に法をもって抑えられたことを恨み、党人宗凖の讒言で謀反の疑いをかけられたが、朝貴の弁明で雪がれた。懌は自らの忠義が誹られたことを慨し、『顯忠録』二十巻を編んで意を示した。正光元年(520年)七月、元乂は劉騰と共に肅宗を顯陽殿に閉じ込め靈太后を後宮に幽閉するクーデターを起こし、懌を門下省に監禁して罪状を誣告し殺害した。享年三十四。朝野は悲しみ、洛陽在住の異民族の中には顔を傷つけて哀悼する者が数百人に及んだ。