魏書卷二十一上・下 列傳第九上・下 彭城王勰

彭城王勰、字は彦和。献文帝の子(髙椒房所生、太和九年〈485年〉始平王封)。聡明で学問と文才に優れ、孝文帝の南征では露布の起草や病床での看護を担うなど厚い信任を受け、孝文帝の諡号・廟号も勰の議によって定められた。壽春を平定し淮南を平定するなど武功もあったが、髙肇の讒言により毒酒を賜り殺害された。孫の寛も後年爾朱兆に殺されている。

年表(3件)

出自と経歴

彭城王勰、字は彦和。生まれつき聡明で、太和九年(485年)始平王に封じられ侍中・征西大将軍を加えられた。生母潘氏の死と献文帝崩御が重なり、喪に服して哀毀すること三年に及んだ。学問を好み経史に通じ文才に優れた。侍中として長く宮中に伺候し軍国の大政に参与、車駕南伐には撫軍将軍・宗子軍統率として従い、彭城王に改封、食邑二千戸。孝文帝との詩文の応酬や問答が多く記され、深い信任を受けた。南伐に際し中軍大将軍を加えられ、慕容垂の故事に触れて固辞を願ったが許されず、孝文帝は「二曹(曹丕・曹植)の才名相忌むに対し、我と汝は道徳で親しむ」と語った。

孝文帝の講喪服の際、勰らのために特別に礼を講じるなど厚遇を受けた。南征では露布(戦捷の告文)の起草を任され、孝文帝の文と見分けがつかないほどであった。孝文帝の病が重くなると、勰は内で医薬を、外で軍国の事務を統括し、名医徐謇に必死の説得を行い、汝水のほとりに壇を築いて身代わりを天に祈った。凱旋策勲の礼で勲功随一とされ、増邑を固辞した。孝文帝の崩御に際しては世宗(当時の太子)を迎えるまで喪を秘し、平常を装って軍を保った。咸陽王禧はこれを疑ったが、勰は終始誠実に応対した。孝文帝の諡号「孝文皇帝」・廟号「髙祖」は勰の議によって定められた。

世宗は勰を宰輔に留めようとしたが、勰はしきりに退隠を願い、使持節侍中都督冀定幽瀛營安平七州諸軍事驃騎大将軍開府定州刺史として出鎮させられた。尚書令王肅らの上表で増邑一千五百戸を受けたが固辞。景明初め、蕭寶卷の豫州刺史裴叔業の内属に伴い都督南征諸軍事として壽春を接収、司徒を加えられ揚州刺史を兼ね、建安戍の胡景畧を降し、寶卷の将陳伯之・胡松の軍を大破(斬首九千・捕虜一万)して淮南を平定した。壽春統治は寛裕を旨とし、南人の懐柔に成功した(降将王果らの厚遇の逸話)。

その後、朝廷に召還され、咸陽王禧・北海王詳の讒言(勰が人望を得すぎているとの訴え)により、世宗から高蹈(隠退の志)を許す形で解任されたが、これは事実上の排斥であった。勰は太師に任じられたがこれも固辞、世宗の懇請でやむなく応じた。京兆王愉・廣平王懐の暴虐を諫めるなど良識ある態度を保ったが、政務からは遠ざけられ鬱々とした日々を送った。文史を好み、自ら「要畧」三十巻(古今帝王賢達の事跡)を撰した。

尚書令髙肇は勰を憎み、順皇后の後任をめぐる対立(勰が反対)を機に、京兆王愉の乱に連座させる形で「勰が北は愉と通じ南は蛮賊を招いた」と誣告した。永平元年(508年)九月、勰は妃の出産を理由に固辞したが強制的に召し出され、宮中で毒酒を賜り、抗弁も虚しく武士に殺害された(表向きは病死とされた)。妃李氏(李沖の女)は「髙肇が理を枉げて人を殺した、天道に霊あらば汝も悪死するであろう」と叫び、のちに髙肇も誅殺されて人々は因果応報と噂した。世宗は東堂で挙哀し、東園祕器・朝服・賻銭八十万・布二千匹・蠟五百斤を給し仮黄鉞使持節都督中外諸軍事司徒公侍中太師王を追贈、鑾輅九旒・虎賁百人などの葬儀の礼を与えた。太常卿劉芳の議により諡は武宣王。莊帝即位後、文穆皇帝と追号され、妃李氏は文穆皇后として太廟(肅祖)に祀られたが、前廢帝の時にその神主は除かれた。

史臣曰、武宣王(勰)は孝を質とし忠を行いとし、文謀武略を兼ね備えたが、功高くして主を震わせ、徳隆くして俗を動かしたため、讒言ひとたび入るや志を全うできなかった。周成王・漢昭帝のような賢明な主にすら遇い難いものであると嘆じている。

彭城王勰の子女

嫡子の劭(字は子訥)は襲封、武芸に優れ気節があった。肅宗初め、蕭衍の侵攻に際し私財と国吏を軍用に供出することを願い出たが許されなかった。青州刺史として防備に功があったが、靈太后の失政に乗じて異志を抱いたとして安豐王延明に告発され、御史中尉に召されるも、莊帝即位時に無上王と尊ばれ、河陰の変で遇害、諡は孝宣皇帝。妻李氏は文恭皇后。子の韶(字は世胄)は司州牧を経て北齊で降格、弟の襲(字は世紹)は武安王に封じられ北齊で降格。

劭の兄の子直(字は方言)は清河文獻王懌に賞愛され、黄門侍郎を経て梁州刺史となるも政績なく病没、靈太后の詔で真定縣開國公に封じられていた。莊帝即位後、陳留王を追封され仮黄鉞太師大司馬太尉を追贈。子の寛(字は思猛)は襲爵、永安三年(530年)爾朱兆に晉陽で殺され、無後で国は除かれた。出帝初め使持節散騎常侍都督青齊済三州諸軍事衛大将軍青州刺史・のち司徒公を追贈。弟の剛(字は金明)は莊帝初め浮陽王に封じられ北齊で降格、剛の弟質は林慮王に封じられ永安三年薨、車騎大将軍左光禄大夫儀同三司を追贈。

劭の弟子正(字は羙貌)は肅宗初め霸城縣公に封じられ、莊帝即位後に尚書令・始平王となり、兄劭と共に遇害、假黄鉞侍中都督中外諸軍事大将軍録尚書事相王を追贈、諡は貞。子の欽(字は世道)は北齊で降格。

卷二十一上・史論(顯祖諸子)

史臣曰、顯祖(献文帝)の諸子はいずれも太和の世に道を学んだ。咸陽王(禧)は位望重かったが謀反を自ら企てて敗れた。趙郡王(幹)は王度を過り、諡を霊と定められた。廣陵王(羽)は明察をもって知られたが不幸にも早世した。髙陽王(雍)は器量才術に欠けながらも国家の柱石を担い、孝昌年間の反乱もこれを深く責めるべきではない。北海王(詳)は義理に暗く親族間の争いに敗れ、奢淫のうちに自ら禍を招いた。禍は讒言によるとはいえ、自ら招いた咎でもある。(顥については)失った国を拾うように容易く得たが忽ちに失い、天がこれを覆したとしか言いようがない。

卷二十一下・史論(彭城王勰=武宣王)

(本文中に既出のとおり、彭城王勰の伝末に付された史論を参照。)