魏書卷二十一上・下 列傳第九上・下 髙陽王雍

出自と経歴

髙陽王雍、字は思穆。太和九年(485年)潁川王に封じられ侍中・征南大将軍を加えられた。中護軍・鎮北大将軍を経て髙陽王に改封、七廟神主の洛陽遷座を奉じ、食邑二千戸。車駕南伐に際し鎮軍大将軍として留守を統括、のち衛尉・使持節鎮北将軍相州刺史。孝文帝は牧たる者の心得を説いた。世宗初めに都督冀相瀛三州諸軍事・征北大将軍開府冀州刺史、のち驃騎大将軍司州牧、司空公・太尉公を歴任し律令制定に参与した。考課制度の不備(在事者と散官との不均衡など)を長文で上表し、世宗に諮問された。

肅宗(孝明帝)初め、太極西栢堂で政務諮問に加わり、宗師・太傅侍中領太尉公となった。領軍于忠が専権をふるい、僕射郭祚を矯詔で殺すなどしたため雍は一時解任されたが、靈太后の臨朝で復権し、于忠の罪状六箇条を挙げる長文の自己弾劾表を上呈、太后は于忠の功を惜しんでこれを不問とし、雍を侍中太師とした。奢侈禁令を上表するも徹底しなかった。丞相にまで昇り、元乂と共に朝政を専断、俸禄・伎侍・子女の栄華は並ぶ者がなかった。正妃盧氏の没後、博陵崔顕の妹を後妻としたが、のち寵愛が衰えて別居幽閉し、暴死を招いたとの噂もあった。孝昌初め丞相府を開くことを許されたが、莊帝初め、爾朱榮が雍に謀反の疑いをかけ河陰の変で殺害された。假黄鉞相国・諡は文穆を追贈。史書は雍を「識見浅く学業もなかったが、親尊の故に宰輔の地位にあった」と評する。

嫡子の泰(字は昌)は雍と共に河陰で遇害、侍中特進驃騎大将軍太尉公武州刺史・諡文孝を追贈。子の斌は北齊で尚書右僕射に至るも降格。泰の兄端(字は宣雅)は徐兗方面での戦功により安得縣開國公に封じられ、雍と共に遇害、車騎大将軍儀同三司相州刺史を追贈。泰の弟叡(字は子哲)は済北郡王に封じられ雍と共に遇害、車騎大将軍司空公雍州刺史を追贈。その子徽は武定五年(547年)元瑾らの謀反に連座し伏法。叡の弟誕(字は文發)は昌樂王に封じられ、天平三年(536年)薨、諡文獻。誕の弟勒乂・亘・伏陁・彌陁・僧育・居羅は出帝初めにそれぞれ陽平・濮陽・武陽・新陽・頓丘・衛の各縣伯に封じられたが、北齊建国で多くが降格・除封された。