魏書卷十九下 列傳第七下 樂陵王胡兒

樂陵王胡兒

  • 樂陵王胡兒は和平四年(463年)薨じ、樂陵王を追封、征北大将軍を贈られ諡は康、子はなかった。顕祖(献文帝)の詔で胡兒の兄汝陰王天賜の第二子永全をその後とし襲封させ、のち名を思誉と改めた。
  • 高祖初め蠕蠕が塞を犯すと思誉は鎮北大将軍・北征大都将となり、のち使持節・本将軍・護匈奴校尉・都督中軍都将を除せられ、使持節・鎮東大将軍・和龍鎮都大将・営州刺史として出、護東夷校尉を加えられ鎮北将軍・行鎮北大将軍に転じた。高祖が光極堂で百官を引見した際、思誉に「恒代の路は旧都から遠く隔たる、重責ゆえ叔父を遠く煩わせる、この任に敬慎して朕の望みに副われよ」と諭した。
  • 恒州刺史穆泰の陰謀を知りながら告発しなかったが死罪を恕され庶人に落とされ削封、太和末(499年)王封を復し、正始四年(507年)薨、光州刺史を贈られ諡は密王。

樂陵王の子孫

  • 子の景略、字は世彦。世宗時に襲封、驍騎将軍を拝し、持節・冠軍将軍・幽州刺史を除せられ、熙平元年(516年)薨、本将軍・豫州刺史を贈られ帛四百疋を賜り諡は恵王。子の霸、字は休邦。爵を襲ぎ武定中に鉅鹿太守となったが斉の受禅で爵は例により降格。
  • 景略の弟慶略は散騎侍郎、子の子政は通直散騎常侍。慶略の弟洪略は恒農太守・中軍将軍・行東雍州刺史。洪略の弟子業は平原太守。