章武王太洛
- 章武王太洛は皇興二年(468年)薨じ、征北大将軍・章武郡王を追贈、諡は敬。子なく、高祖初め南安恵王(楨)の第二子彬をその後とした。
彬(章武王の後)
- 彬、字は豹兒。爵を襲ぎ勇健で武用があり、使持節都督東秦豳夏三州諸軍事・鎮西大将軍・西戎校尉・統万鎮都大将・朔州刺史として出たが貪婪により封を削られた。時に吐京胡が反すると、彬は詔で持節・仮平北将軍・行汾州事とされ并肆の兵を率いこれを討ち、胡平定後に征虜将軍・汾州刺史を除せられた。
- 胡民去居ら六百余人が険を保ち謀反し同類を扇動したため彬は二万の兵を請い、有司はこれを許可したが、高祖は「なぜ兵馬を動かす理があろうか、適宜鎮撫すべきで、静めきれず大軍が必要なら、まず刺史(彬)を斬ってから発兵せよ」と大いに怒った。彬は詔を奉じ大いに恐れ州兵を率い自ら将士の先頭に立って胡を討ち平定した。太和二十三年(499年)卒、銭十万・絹二百匹を賜り、本官に散騎常侍を加えて贈られた。彬には五子があった。
融(彬の長子)
- 長子の融、字は永興。容貌壮麗で衣冠すぐれ、性は通率で豪気あり、高祖時祕書郎を拝し、世宗初め先の爵を復し驍騎将軍を除せられた。蕭衍の将が淮陽・梁城に迫り陥落させると、詔で融を仮節・征虜将軍・別将として南討させ賊衆を大いに破り梁城を回復した。時に揚州刺史元嵩が奴に殺害されると融に揚州行事を命じ、まもなく仮節・征虜将軍・并州刺史を除せられた。
- 世宗崩御に際し司空を兼ね景陵の造営に当たり宗正卿を拝し、本官のまま瀛州行事となったが疾のため赴任せず、まもなく散騎常侍・平東将軍・青州刺史を除せられ、のち祕書監に還り中護軍に遷り撫軍将軍に進号、河南尹を領し征東将軍を加えられた。性は貪残で中尉に糾弾され官爵を削られた。汾夏の山胡が叛き正平・平陽に連結すると、詔で融の旧封と征東将軍・持節都督を復しこれを討たせたが、融は経略に乏しく胡に敗れた。しばらくして散騎常侍・衛将軍・左光禄大夫を加えられた。
- のち賊帥鮮于脩礼が瀛定二州を侵し長孫稚らが討伐して失利すると、融は車騎将軍・前駆左軍都督を除せられ広陽王淵らと共に脩礼討伐に向かい、師が交津を渡ると葛栄が脩礼を殺して自立、営を白牛邏に移し軽騎で融を撃った。融は終日苦戦したが外援なく大敗し陣中で殺された。
- 粛宗は東堂で挙哀し東園祕器・朝服一具・綵二千八百段を賜い、侍中都督雍華岐三州諸軍事・本将軍・司空・雍州刺史を追贈、のち王事に死した功により司徒に進贈し前後部鼓吹を加え、諡は荘武。子の景哲が爵を襲ぎ武定中に開府儀同三司となったが斉の受禅で爵は例により降格。景哲の弟朗はのちの後廃帝で、事は帝紀にある。子の黄頭が爵を襲ぎ安定王に改封、のち安平王に改封されたが斉の受禅で爵は例により降格。
凝(融の弟)
- 融の弟凝、字は定興。起家恒州征虜録事参軍、護軍長史に累遷。姑が爾朱栄の妻であった。荘帝初め東安王・食邑五百戸に封じられ、持節・安東将軍・兗州刺史を除せられ済州刺史に転じたが本将軍のまま、永熙二年(533年)薨、持節都督滄瀛冀三州諸軍事・驃騎大将軍・冀州刺史を追贈。子の彦友が爵を襲ぎ武定中に光禄大夫となったが斉の受禅で爵は例により降格。
湛(凝の弟)
- 凝の弟湛、字は鎮興。起家祕書郎、尚書左司郎中に転じ廷尉少卿に遷った。荘帝初め河陰で遇害、征東将軍・青州刺史を追贈、漁陽王・食邑五百戸に追封。子の俊が爵を襲いだが斉の受禅で爵は例により降格。
晏(湛の弟)
- 湛の弟晏、字は俊興。祕書丞で卒し、平東将軍・祕書監・豫州刺史を贈られた。