魏書卷十九下 列傳第七下 定安王休
定安王休、皇興二年(468年)に封ぜられ征南大将軍・外都大官を拝した。幼くして聡慧で治断に優れ、高祖の親任篤く、太和十八年(494年)薨去、諡は靖王。世宗の代には廟庭に配享される破格の待遇を受けた。子孫の燮・超・願平らも要職を歴任した。
年表(5件)
- 皇興二年468年定安王に封ぜられ征南大将軍・外都大官を拝す
- 太和十八年494年病に伏し高祖自ら見舞う、まもなく薨去し諡は靖王とされる
- 延昌四年515年子の燮、薨去する
- 孝昌中(525-)527年願平、卒する
- 太昌初め532年願平の弟永平、城民に殺害されたのち追贈される
定安王休
- 定安王休(底本のこの巻頭の目録は「安定王」と記す)は皇興二年(468年)封ぜられ、征南大将軍・外都大官を拝した。休は幼くして聡慧で治断に称があった。高祖初め庫莫奚が辺を侵すと休は使持節侍中都督諸軍事・征東大将軍・護東夷校尉・儀同三司・和龍鎮将となり、撫防に方があって賊は款附し、入朝して中都大官となった。のち蠕蠕が塞を犯すと使持節・征北大将軍・撫冥鎮大将として出、自ら将士の先頭に立って虜を撃退し、入朝して内都大官、太傅に遷った。
- 五等開建に及び食邑二千戸、車駕南伐に大司馬を領し、高祖が諸軍を親閲した際、三人の盗人を六軍に晒し斬ろうとしたが詔で赦そうとすると、休は「陛下が遠く衡霍を清めんとし親ら六師を率い野次を跋渉されるのに、軍行の始めからすでに姦竊がある、斬らねばどうして盗を息めようか、どうか刑を行い姦慝を粛正されたい」と諫めた。詔は「大司馬の執憲はまさにあるべき姿だが、王者の体にも時に非常の恵みがある、軍法に違うが特にこれを原してほしい」と応じ、休はこれを奉じた。高祖は司徒馮誕に「大司馬は厳にして法を秉る、諸軍は慎まねばならぬ」と語り、六軍は粛然とした。
- 遷都洛陽に際し休は駕に従い鄴に幸し、休に命じ従駕の文武を率い平城の家族を洛陽に迎えさせ、高祖は漳水の北で休を餞した。太和十八年(494年)休が病に伏すと高祖は自らその邸に幸し涙して見舞い、中使・医薬が路上に絶えなかった。薨じると帛三千匹を賵し、薨去から殯まで車駕は三度臨み、高祖はその門に至り裼衰素弁絰を着け、皇太子・百官もみな従い行弔の礼を行った。葬に際しさらに布帛二千匹を贈り諡は靖王、仮黄鉞・羽葆鼓吹・虎賁班剣六十三人を詔し三老尉元の儀に凖じ、高祖は自ら郊外まで送り慟哭して帰った。諸王への恩礼で並ぶ者はなく、世宗の世、廟庭に配享された。
燮(休の子)
- 長子の安は幼くして早卒。次子の燮、下大夫を除せられ、世宗初め襲封し太中大夫を拝し、征虜将軍・華州刺史を除せられた。
- 燮は上表し、州治の李潤堡はもと少梁の旧地・晋の芮の錫壌の地だが胡夷が内附し戎落となり城も旧邑ではない、馮翊の古城は羌魏両民の交わる要地で許洛水陸の際、先漢の左輔・皇魏の右翼にあたる名都、現在の州治は岡に居り澗を飲む不便な地で往還数里の労苦があり礼教に適わない、馮翊に移せば渭水・原澤に面し材木も運びやすく人々の労も省ける、昔宋の民が井戸なきを憂え井戸を穿って喜んだ故事もあり、前政の刺史も意なきにあらず兵乱や年災のため延引したもの、今は豊作で治世、移転の費えは軽く益は重いと述べ、詔で「一労永逸」として移転が許された。のち征虜将軍・豳州刺史を除せられ、延昌四年(515年)薨、本将軍・朔州刺史を贈られた。
超(燮の子)
- 子の超、字は化生。粛宗初め爵を襲ぎ、当時胡国珍が安定公に封じられたため北平王に改封、城門校尉・通直散騎常侍・東中郎将を拝し、光禄大夫・領将作大匠を除せられ、のち本封を復した。爾朱栄の洛陽侵攻の際、超は難を避け洛南に逃れたが賊に遭い殺害された。荘帝初め車騎大将軍・儀同三司・岐州刺史を追贈。子の孝景が爵を襲ぎ武定中に通直郎となったが斉の受禅で爵は例により降格。
願平(燮の弟)
- 燮の弟願平は清狂で品行なく、高祖末、員外郎を拝し、世宗初め給事中に遷ったが悖悪日々甚だしく人を殺し盗みを働き公私共に患いとした。世宗は近親であることから法に処すことを忍びず官を免じ別館(名は愁思堂)に禁錮しその克念を望んだ。世宗崩御後に願平は出られたが、霊太后臨朝で暴乱が改まらぬとして詔で別館に還され禁錮された。
- 久しくして禁を解かれ家に帰り、師をつけて厳しく教誨されたが、のち通直散騎常侍・前将軍を拝すも妻王氏をその子女の前で裸にし、さらに妻の母の側で妻の妹を強姦したことが露見、御史中丞侯剛の裁定で不道の罪により絞刑に処されるところ、赦に会い免れ員外常侍に落とされ、孝昌中(525-527年)に卒した。子の緒は幽州安西府功曹参軍、荘帝初め直閤将軍、のち持節兼武衛将軍・関右慰労十二州大使となったが吐谷渾に没した。子の長春は員外散騎侍郎、武定初め南郡王・食邑五百戸に封じられたが斉の受禅で爵は例により降格。
願平の弟たち
- 願平の弟永平は征虜将軍・南州刺史であったが城民華延明に殺害され、太昌初め(532年)使持節侍中都督定瀛幽三州諸軍事・衛将軍・定州刺史を追贈。
- 永平の弟珍平は司州治中。子の叔遵は員外散騎常侍。
- 珍平の弟貴平は羽林監、射声校尉に転じ、荘帝初め散騎常侍・宗正少卿を除せられ東萊王・食邑百戸に封じられ、平北将軍・南相州刺史を除せられた。荘帝が爾朱栄を殺した後、武衛将軍を加えられ侍中を兼ね河北山東慰労大使となり定州に至ったが、東北で幽州大都督侯淵に捕らえられ晋陽に送られ、のち洛陽に還り、前廃帝時、本官のまま青州行事となった。土地の民崔祖螭が反乱を起こし賊徒は盛んで東陽を百余日包囲したが、貴平は城民を率いて固守し将士に開門交戦させ大軍が救援に至り祖螭らを擒えて斬った。還って車騎将軍・散騎常侍を除せられ左衛将軍・宗師に遷り、さらに車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司に遷った。貴平は人物としては険薄で出帝に信任され青州刺史として出、さらに驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ幽州大都督となったが、侯淵に殺害された。
史論
- 史臣曰く、南安王楨は始めは至らぬところがあったが終わりを善くし、善行が悪行を覆い隠さなかった。子の英は将帥としての働きがあり当時名声があった。熙・略の兄弟は早くから民の誉れを得ていたが、ある者は才が疎く志ばかり大きく、ある者は器量が狭いのに任は広きに過ぎ、いずれも功名を成し遂げられず非命に斃れたのは惜しむべきである。城陽康王(長壽)は長命でなかったが、子の鸞は起家より名声があり、徽は智を飾り情を矯め、外は謹厚に見せながら内心は猜忌深く、永安の禍(荘帝弑逆に至る混乱)を招いた責は誰にあるのか、その死は当然の帰結であろう。章武王・楽陵王(太洛・胡兒)は取り立てて論ずるに足りない。定安の靖王(休)は聡明で決断力に優れ威重があり、太和年間に称賛されたのは見事なことである。