魏書卷十九上 列傳第七上 汝隂王天賜

出自と経歴

汝隂王天賜は和平三年(462年)に封じられ、鎮南大将軍・虎牢鎮都大将を拝命、のち内都大官となった。髙祖の初め、殿中尚書胡莫寒が西部の勅勒の中から豪富で丁の多い者を選んで殿中武士とし、大いに財貨を納めさせたが選び方が不公平だったため衆は怒り莫寒と髙平の仮鎮将奚陵を殺した。これにより諸部の勅勒はことごとく叛いた。詔は天賜と給事中羅雲に諸軍を督させ討たせたが、前鋒の勅勒は偽って降り、雲はこれを信じた。副将元伏は「勅勒の顔色が動揺しており変事の恐れがある、備えねば図られよう」と諫めたが雲は従わず、勅勒の軽騎数千に襲われて雲は殺され、天賜はかろうじて自ら全うした。のち征北大将軍・護匈奴中郎将を拝命、累進して懐朔鎮大将となったが、貪残の罪で死を免ぜられ官爵を削られた。卒すると髙祖は思政観で哭し、本爵を追贈し王礼をもって葬らせ、諡は靈王とした。

逞(天賜の子、字萬安)と慶和

子の逞、字は萬安、齊州刺史で卒し、諡は威。逞の子慶和は東豫州刺史であったが、蕭衍の将に攻められ城を挙げて降った。衍は慶和を北道總督とし、魏王が項城に至ると朝廷は師を出して討たせたが、慶和は風を望んで退走した。衍は「言は百舌の如く、膽は鼷鼠の若し」と責め、合浦に徙した。

汎(逞の弟、字普安)

逞の弟汎、字は普安、元士から營州刺史に遷った。性貪残で人々はその命に堪えかね相率いてこれを逐った。汎は平州に走り、のち光禄大夫・宗正卿・東燕縣男に封じられたが、河陰の変で害された。

脩義(天賜の第五子、字壽安)

天賜の第五子脩義、字は壽安。書伝を渉猟し文才があり、髙祖に知られた。元士から左将軍・齊州刺史に累進した。脩義は齊州で刺史が頻りに喪に遭う(不吉とされた)として辞退を重ねて上表したが、詔は「脩短(寿命の長短)は命にあり吉凶は人によるもの、いたずらに憂憚して維城の寄せを乖くべきではない、しかし凶を避け吉に就くのは人情でもあるから新たに館宇を建ててもよい」として、治所を東城に移させた。脩義は政治に寛和で人を愛し、州にあること四年、一人も殺さず、百姓はこれを追慕した。秦州刺史に遷り、肅宗の初め、庶人禧・庶人愉らの罪を宥し陵域への埋葬を願う上表をしたが、靈太后は「収葬の恩は上旨によるもので、藩岳(地方官)が職を越えて陳ずべきでない」と詔した。州にあって収賄が多く、累進して吏部尚書となったが、銓衡(人事)にあってはひたすら賄賂を事とし、官の大小に定価があった。中散大夫髙居がすでに旨を得て上黨郡の欠員を求めていたところ、脩義は私かに他に許していたため居を抑えて与えず、居が大言不遜であったため、脩義は左右に命じて居を引きずり出させた。居は大衆の前で「白昼公庭にどうして賊があろうか」と天を呼ばわり、人が問うと居は「脩義がこの座で天子の明詔に背き、物多く出す者が官を得る、これは京師の白昼の劫盗にあらずして何であろう、これが大賊でなくて何であろう」と答えた。脩義は色を失い、居は罵りながら退出した。後に居は車駕を邀えて脩義の罪状を訴えようとしたが、左僕射蕭寶夤がこれを諭して止めた。二秦(秦州・南秦州)が叛くと、脩義は仮に尚書右僕射・西道行臺を兼ね秦州事を行い諸軍を節度したが、脩義は酒を好み連日飲み続けたため風病にかかり神明が昏喪し、長安に至っても部分(軍務の指揮)の役に立たなかった。元志が敗没し賊が東の黒水に至ると、改めて蕭寶夤を遣わして討たせ、脩義は雍州刺史となり、州で卒した。司空を追贈され、諡は文。子の均は給事黄門侍郎の位にあった。