魏書卷十九上 列傳第七上 濟隂王小新成

濟隂王小新成は景穆皇帝の子(尉椒房所生、和平二年〈461年〉封)。武略に優れ庫莫奚討伐で毒酒を用いた計略により大勝した。子の鬱は収賄で賜死され爵を除かれたが、鬱の長子弼は叔父に爵を奪われながらも節を守り嵩山に隠棲、その子暉業の代に王爵が回復された。麗の子顯和は徐州刺史元法僧の反乱に殉じて節義を貫いた。

年表(4件)

出自と経歴

濟隂王小新成は和平二年(461年)に封じられ、武略に優れた。庫莫奚が侵擾したため詔により小新成が衆を率いて討ち、多くの毒酒を用意して敵が迫ると陣を棄てて去った。賊は喜んでこれを奪い競って飲み備えを怠ったところ、軽騎を選んで酔いに乗じ縦撃し、俘馘(捕虜と斬首)は甚だ多かった。のち外都大官となり薨じ、大将軍を追贈、諡は惠公。

鬱(小新成の子、字伏生)と弼(鬱の長子、字邕明)

子の鬱、字は伏生、爵を襲ぎ開府・徐州刺史となったが収賄により賜死され、国は除かれた。鬱の長子弼、字は邕明、剛正で文学あり、中散大夫の位にあった。世嫡として爵を襲ぐべきところ、季父(叔父)の尚書僕射麗が于氏の親寵によって弼の王爵を奪い、同母兄の子誕に横授した。弼はこれにより人事を絶ち、病と称して私第に退いた。世宗が侍中に召したが、弼は固く上表して辞し、嵩山に入って穴居し、布衣蔬食で過ごした。建義元年(528年)、子の暉業が王爵の回復を訴え、永安三年(530年)尚書令司徒公を追贈、諡は文獻。かつて弼が夢に「君の身は爵位を伝えられないが、先爵を継ぐ者は君の長子紹遠である」と告げられたことがあり、暉業に語ったところ、後にその言葉通りになったという。

暉業(弼の子)

暉業は若い頃険薄で盗賊の類と交わることが多かったが、長じて節を変え、子史(諸子百家・史書)に通じ、また文才があり、慷慨として志節を持った。司空・太尉を歴任し特進を加え、中書監・録尚書事を領した。齊の文襄王(髙澄)が「近頃何を読んでいるか」と問うと、暉業は「しばしば伊尹・霍光の伝を尋ねるが、曹操・司馬懿の書は読まない」と答えた。暉業は時運がすでに傾いたと見て身を全うすることを図らず、ただ飲食に耽り、一日に羊三頭、三日に牛一頭を食した。またかつて詩を賦して「昔王道の泰なるに居りては済済として群英富めり、今世路の阻しきに逢いては狐兎鬱として縦横す」と詠じた。齊の建国初め美陽縣公に降封され、開府儀同三司・特進となった。晉陽にあった間は交際を絶ち常に閑暇に過ごし、魏の藩王の家世を撰して『辨宗室録』四十巻と号し、世に行われた。

昭業(暉業の弟)

暉業の弟昭業は学問を尊び、諫議大夫の位にあった。莊帝が洛陽の南へ行幸しようとした際、昭業は閶闔門外に立って馬を扣え諫めたが、帝はこれを避けて過ぎた。のち労いを受け、給事黄門侍郎・衛将軍・右光禄大夫に至り、卒して諡は文侯。

偃(鬱の弟、字仲琁)と誕(偃の子、字曇首)

鬱の弟偃、字は仲琁。太中大夫の位にあり卒した。子の誕、字は曇首。誕の伯父鬱は貪汚により賜死され爵を除かれていたが、誕は「鬱の前朝の封は年長により継いだもので、罪により除かれたのは襲爵の誤りに由来する。爵は正しきに帰すべき」と訴えた。詔は「偃が正元妃の産んだ嫡子であり、濟隂王の嫡孫である曇首(誕)が継ぐことを許し先緒を纂がしめよ」とした。誕は爵を襲ぎ齊州刺史となったが、州にあって貪暴の限りを尽くし人々の患いとなった。牛馬騾驢を奪わぬものなく、家の奴隷にはことごとく良人の女を娶らせた。ある沙門が薬を採りに出て帰り誕に会うと、誕が「師は外から来たが何か消息があるか」と問い、沙門は「ただ王の貪欲を聞くのみ、王には早く代わっていただきたいと願っている」と答えた。誕は「齊州七万戸から、私はまだ三十銭も得ていない、どうして貪欲と言えようか」と言った。のち御史中尉元纂に糾弾されたが赦に会い免れ、薨じて諡は静王。子の撫、字は伯懿、爵を襲いだが、莊帝の初め従兄暉業が王爵の返還を訴えた。

麗(偃の弟、字寳掌)――経歴

偃の弟麗、字は寳掌。宗正卿を兼ね右衛将軍に遷り、光禄勲・宗正・右衛を旧のごとく兼ねた。時に秦州の屠各王法智が州主簿呂茍兒を主に推し「建明元年」と号して百官を置き州郡を攻め逼り、涇州人陳瞻もまた衆を集めて自ら王を称し「聖明元年」と号した。詔は麗を使持節都督秦州刺史とし、別駕楊椿とともに討たせた。茍兒は十余万の衆を率いて孤山に屯し諸険を列拠して州城を包囲したが、麗は出撃してこれを大破し、永洛に進軍すると賊は逆戦したが麗は夜襲してこれを走らせた。秦州事を行っていた李韶は茍兒を孤山で破り、勝ちに乗じて三十里を追撃し、その父母妻子を獲て賊王五人を斬り、残りは相継いで帰降し、諸城の包囲もみな解けて逃げ散った。茍兒はその王公三十余人を率いて麗のもとに詣り罪を請い、椿もまた瞻を斬った。麗は平賊の勢いに乗じて良民七百余人を枉げて掠奪したが、世宗はその功を嘉し、有司に追検させなかった。雍州刺史を拝命したが、政治は厳酷で吏人はこれを患いとした。妻崔氏が一男を生んだ際、麗は州獄の囚人で死罪の者や、徒流の罪で未だ台に申達していない者を一時に放免した。冀州刺史に遷り、入朝して尚書左僕射となった。帝が「公が州にあって理由なく殺戮すること枉濫甚だしく、また道人(僧)を大いに殺したと聞くが」と問うと、麗は「臣は冀州にあって道人二百人ほどを殺したが、それが何ほどのことか」と答えた。帝は「一物もその所を得ざれば隍に納るるが如しというのに、まして道人二百を殺して多くないと言うのか」と述べると、麗は冠を脱いで謝した。のち卒し、諡は威。

顯和(麗の子)

子の顯和は若くして節操があり、司徒記室参軍を歴任、司徒崔光は常にこれを見て「元参軍は風流清秀・容止閑雅、まさに宰相の器なり」と評した。徐州安東府長史に任じられたが、刺史元法僧が叛くと顯和はこれと戦って捕えられた。法僧は顯和の手を執って連座を命じたが、顯和は「顯和と阿翁(あなた)は同源別派、みな磐石の宗である。一朝にして土地を以て外に叛けば、董狐(正直な史官)に遭ってどうして慙徳なきを得ようか」と拒み、法僧はなお慰喩しようとしたが、顯和は「むしろ死して悪鬼となろうとも、生きて叛臣とはならない」と答え、殺されようとする際も顔色を変えなかった。建義の初め(528年)、秦州刺史を追贈された。