魏書卷十九上 列傳第七上 京兆王子推

京兆王子推は景穆皇帝(恭宗)の子(尉椒房所生、太安五年〈459年〉封)。沈着で人当たりがよく秦雍の人望を集め、獄を裁いて名声を得た。顯祖から禅位を打診されたが大臣の諫止により髙祖に伝位した。子の太興は病を機に出家し僧懿と名乗った。子孫は昴・悰・仲景・暹らに継がれ、暹は涼州刺史として貪暴を極めた。

年表(3件)

出自と経歴

京兆王子推は太安五年(459年)に封じられ、侍中・征南大将軍・長安鎮都大将となった。子推は沈着で人当たりがよく、秦雍の人々はその威徳になびいた。入朝して中都大官となり、獄を裁いて名声を得た。顯祖(献文帝)は子推に禅位しようとしたが、大臣が固く諫めたため髙祖(孝文帝)に伝位した。髙祖の即位後、侍中・本将軍・開府儀同三司・青州刺史を拝命したが、赴任の途上で薨じた。

太興(子推の子)――経歴

子の太興が爵を襲ぎ、長安鎮都大将を拝命したが、収賄により官爵を削られた。のち祕書監に任じられ、また旧爵に復した。統萬鎮将を拝命し西河に改封、のち鎮を夏州に改め太興を刺史とし守衛尉卿を兼ねさせた。かつて太興が病んだ際、多くの沙門を招いて行道させ、資財をすべて布施し病の治癒を願う「散生齋」を行った。斎の後、僧はみな四散したが、一人の沙門が来て斎の残り物を求めた。太興が戯れに「斎食はすでに尽き、あるのは酒肉のみ」と言うと、沙門は「それも食べられる」と答え、酒一斗・羊の脚一本を平らげてなお足りないと言った。辞去の後、酒肉はそのまま残り、門を出て追ったがその姿は見えなかった。太興は仏前で「先ほどの師は俗人ではあるまい。この病が癒えれば王爵を捨てて出家しよう」と誓願した。まもなく病は癒え、出家を願う上表を十数回重ねてようやく許された。当時髙祖は南討で軍中にあり、皇太子に詔して四月八日に太興の髪を剃らせ、帛二千匹を施した。沙門となって名を僧懿と改め、嵩山に住み、太和二十二年(498年)に没した。

昴・悰・仲景・暹・沖――以下の世系

子の昴、字は伯暉、爵を襲いで薨じた。子の悰、字は魏慶、爵を襲ぎ、孝静帝の時、累進して太尉・録尚書事・司州牧・青州刺史となり、州にて薨じ、假黄鉞太傅司徒公を追贈され、諡は文。悰は寛和で度量があり、容貌美しく風格は儼然としていたが、得喪の間もその感情を顔に表さなかった。清儉な性質で産業を営まず、死去の日、家に余財がなかった。

昴の弟仲景は性厳峭で、莊帝の時、御史中尉を兼ね、京師は粛然となった。常に赤牛の車で台に向かったため、当時の人は「赤牛中尉」と呼んだ。太昌初め、河南尹となり法を奉じて私なく、吏部尚書樊子鵠の部下が横行し盗窃を働いていたのを密かに捕らえ悉く獲て即座に処刑したため、豪貴は震え上がった。出帝が西行するに及び、仲景は中軍大都督を授けられて京師に留まったが、齊獻武王(髙歓)が洛陽に迫ると、妻子を棄てて逃れた。

仲景の弟暹、字は叔照。莊帝の初め南兖州刺史となり、州にあって猛暴で殺害が多かった。元顥が洛陽に入った際、暹は州に拠って屈しなかった。莊帝が還宮すると汝陽王に封じられ、秦州刺史に遷った。以前、秦州の城人はしばしば反覆したため、暹はことごとく誅殺し、生き残った者は十のうち一二であった。普泰元年(531年)涼州刺史となり、貪暴を極め、府人や商胡富人の財物を狙って偽の台符で「賞を加える」と誑かし、一時に屠戮してその財物・生口をすべて自分の物とした。孝静帝の時、侍中・録尚書事となり、薨じて太師・録尚書を追贈された。子の沖が爵を襲いだが子なく国は絶えた。

遥(太興の弟、字太原)――経歴

太興の弟遥、字は太原。器量と人望があり、左衛将軍として髙祖の南征に従い饒陽男に封じられた。世宗の初め、生母の喪に遭い解任を願い出たが、余尊に厭せられるとして許されなかった。肅宗の初め、累進して左光禄大夫・領護軍となり、冀州刺史に遷った。遥は諸胡がもともと戸籍を持たず良民と姦民の区別がつかないとして、すべて造籍させた。しかし諸胡は籍を作れば軍用の税を課されると疑い服さず、遥が金馬を収賄したと訴え出た。御史の按験でも胡人の言と同じ結果が出たため遥は除名されたが、遥は冤罪を訴え続け、勅命で有司が再究したところついに雪冤され、右光禄大夫に遷った。

このころ冀州の沙門法慶が妖幻を唱え、渤海人李歸伯を説いて従わせ、歸伯は一族をあげてこれに従い、郷人を率いて法慶を主に推戴した。法慶は歸伯を「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」とし、自ら「大乗」を号して、一人を殺せば「一住菩薩」、十人を殺せば「十住菩薩」と称した。また狂薬を合わせて人に服させ、父子兄弟すら見分けがつかなくなり、ただ殺害を事とするに至った。かくて衆を集めて阜城令を殺し、渤海郡を破って吏民を殺害した。刺史蕭寶夤は長史崔伯驎を遣わして討たせたが、煑棗城で敗れ伯驎は戦死し、凶徒はますます勢いを増して、至る所で寺舍を屠滅し僧尼を斬戮、経像を焼き払って「新仏が世に出て旧魔を除く」と唱えた。詔は遥を使持節都督北征諸軍事とし、歩騎十万を率いて討伐させた。法慶は相率いて遥を攻めたが、遥はことごとくこれを撃破し、輔国将軍張虯らを遣わして騎兵で追撃させ、法慶とその妻の尼惠暉らを捕らえて斬り、首を京師に伝えた。のち歸伯も捕らえられ都市で処刑された。

当初、遥ら「大功」の従兄弟はみな恭宗(景穆帝)の孫であったが、肅宗の代になると本服(喪服の等級)が尽きたため、遥らは属籍から除かれた。遥は上表して、「聖人が南面して天下を治める際に変えられないのは親と尊である。四世で緦服窮まり、五世で袒免、六世で親属は尽きる。それより先も姓によって繋がり食(俸給)によって綴られ殊にしない。律にも『親を議する』とは当世の属親だけでなく先帝より五世を謂うとある。この趣旨を尋ねれば帝宗を広め磐石を重んじるためのものである」と述べ、先皇(孝文帝)がこの別制を設けたのは太和の末に呉蜀経略の費用がかさみ当座の措置として割減したに過ぎず、恒久の制ではないと論じた。さらに、臨淮王提が分属籍された当初、髙祖は帛三千匹を賜って分離を重んじ、樂浪王長命にも縑二千匹を賜って慈しみを示した先例を挙げ、「百足の虫は死しても倒れず」の故事を引いて宗室の絆を保つべきことを説いた。詔は尚書に付して博議させたが、尚書令任城王澄・尚書左僕射元暉の奏は遥の上表に同じであった。しかし靈太后は従わず、遥は卒して諡は宣公。

恒(遥の弟、字景安、のち芝と改名)

遥の弟恒、字は景安。書史に通じ、恒は『春秋』の義により、山川に由来する名を避けて改名すべきとして芝と改名した。太常卿・中書監・侍中を歴任し、のち河陰の変で害され、太傅司徒公を追贈、諡は宣穆公。