魏書卷十九上 列傳第七上 陽平王新成

景穆皇帝の十四男

景穆皇帝(恭宗)には十四人の男子があった。恭皇后は文成皇帝を生んだ。袁椒房は陽平幽王新成を生み、尉椒房は京兆康王子推と濟隂王小新成を生み、陽椒房は汝隂靈王天賜・樂浪厲王萬壽・廣平殤王洛侯を生んだ(ほかに母の伝わらない子もあった)。孟椒房は任城康王雲を生み、劉椒房は南安惠王楨・城陽康王長壽を生み、慕容椒房は章武敬王太洛を生み、尉椒房(別の一人)は樂陵康王胡兒を生み、孟椒房(別の一人)は安定靖王休を生んだ。趙王深は早世し伝がなく、母も伝わらない。魏の旧制では太子の後庭に位号がなかったが、髙宗(文成帝)の即位後、恭宗の宮人で子のある者はみな「椒房」と号された。

出自と経歴

陽平王新成は太安三年(457年)に封じられ、征西大将軍を拝命、のち内都大官となった。薨じて諡は幽。

頤(新成の長子)――経歴

新成の長子安壽は爵を襲ぎ、髙祖(孝文帝)から「頤」の名を賜った。累進して懐朔鎮大将・都督三道諸軍事となり、北討に際し朝廷に召還され戦略を問われると「廟算を仰ぎ頼み、呼韓邪単于が渭橋で漢に礼を尽くした故事のようにしたい」と答え、帝は「壮んなるかな王の言、朕の望むところなり」と嘆じた。出征前に母の喪に遭ったが、帝は侍臣を遣わし金革の礼(服喪を止めて軍務に就く古礼)をもって説き、殯を終えて出征させた。陸叡らと三道の諸将が進路を議し、中道は黒山、東道は士盧河、西道は侯延河へ向かい、軍は大磧を過ぎて蠕蠕を大破した。頤が入朝すると帝は「王の前言は果たして虚しからず」と詔した。のち朔州刺史・恒州刺史を歴任した。穆泰の謀反に際し、泰は頤を推戴しようとしたが、頤は密かに事情を帝に上奏し、泰らは誅殺された。帝はこれを大いに嘉した。世宗景明元年(500年)、青州刺史として薨じ、諡は莊王。爵位は孫の宗胤まで伝わったが、肅宗の時、叔父殺害の罪により賜死され、爵は除かれた。

衍(頤の弟、字安樂)――経歴

頤の弟衍、字は安樂。廣陵侯に封じられ梁州刺史となった。仮に王号を称し威重を崇めたいと上表したが、帝は「厭くことを知らぬ求めというべし」として却下し、徐州刺史に転じた。州にあって重病となり、帝は徐成伯を駅伝で遣わして療治させ、癒えて帰った成伯に絹三千匹を賜ろうとしたが、成伯は一千匹のみを願い出た。帝は「『詩経』に『人の亡ぶるは邦国の殄瘁』とある、それを思えば三千匹に留まろうか」と述べた。衍が帝にこれほど重んじられていたことを示す逸話である。のち生母雷氏の喪に遭い解任を願い出たが、詔は「先君の余尊に厭せられる礼は明文にあるが、季世に廃れて久しい。侯であっても親王の子であれば余尊の義に従うべきで、大功の服喪に留めよ」とした。のち雍州刺史で卒し、諡は康侯。衍は清廉慎重な性質で、赴任先ではみな廉潔、産業を営まず、四州の牧を歴任してすべて称績があり、死去の日、家に蓄えがなかった。子は暢。

融(暢の弟、字叔融)

暢の弟融、字は叔融。容貌は短く醜かったが驍武は人に勝った。莊帝が爾朱榮の暗殺を謀った際、融は直閤将軍であった。爾朱兆が洛陽に入ると、融は民間に逃れた。

欽(衍の弟、字思若)――経歴

衍の弟欽、字は思若。中書監・尚書右僕射・儀同三司を歴任した。欽は色が非常に黒く、当時の人は「黒面僕射」と呼んだ。欽は従兄麗の妻崔氏と密通し、御史中尉封回に弾劾されたが赦により免れ、まもなく司州牧となった。欽は若くして学を好み早くから令誉があり、当時「皇宗の中で略々たる者は壽安(衍)と思若(欽)」と評されたが、晩年は貴重の身になりながら匡益するところがなく、識者に軽んじられた。欽はかつて青州人の髙僧壽に子の師を求めさせたが、師は来て間もなく逃げ去った。欽が僧壽を責めると、僧壽は諧謔をもって「人は絶粒すれば七日で死ぬというが、五朝を経ただけで逃げ去るとは、食を絶って信を尽くすことに欠けるところがあったのではないか」と欽に言い返した。欽は大いに恥じ、以後は客をやや厚く遇するようになった。のち司空公・鉅平縣公に封じられたが、河陰の変で害され、假黄鉞太師太尉公を追贈された。

子孝(欽の子、字季業)

欽の子子孝、字は季業。早くから令誉があり、八歳の時、司徒崔光はこれを見て「後生の領袖は必ずこの人であろう」と評した。