魏書卷十九中 列傳第七中 順

澄の子・彝の兄、字は子和。幼くして俊才として知られ、剛直な性格で栄利に淡白であった。権臣髙肇・元乂・徐紇らに屈せず直言を重ね、霊太后の華美な装いをも面と向かって諫めるなど清節の士として知られたが、爾朱栄が荘帝を奉じて河陰に百官を召した際、出奔を図る途中で鮮于康奴に殺害された。

年表(2件)
  • 建義元年528年爾朱栄の河陰召集を逃れようとして鮮于康奴に殺害された
  • 建義元年以降528年長子朗が数年潜伏の末に仇の鮮于康奴を斬り、順の墓に首を祭った

才学と剛直な生涯

  • 彝の兄順、字は子和。9歳で陳豊に師事し、王羲之の小学篇数千言を昼夜誦み、15日で全て通暁した。豊はこれに驚き澄に「豊は15歳から老年まで師事してきたが、これほどの者は見たことがない、江夏の黄童も及ばない」と告げると、澄は笑って「藍田に玉が生まれるのも当然だ」と応じた。16歳で杜氏春秋に通じ、常に門生を集めて異同を討論した。四方無事で豪貴の子弟が遊興に耽る中、順は帷を垂れて読書に励み、志を篤くし古を愛し、性格は謇諤(剛直)で栄利に淡白であり、酒を好み琴を弾じては長吟嘆息した。
  • 世宗の代、給事中として出仕した。当時、帝の外戚として権勢を誇った尚書令高肇に人々は追従したが、順が名刺を持って肇の門を訪れた際、門番が「年少だから」と取り次ぎを拒むと、順は「任城王の子が賤しいはずがあるか」と一喝し、そのまま堂に上がって対等の礼で応対した。居並ぶ貴顕は皆驚き恐れたが、順は傲然として意に介さず、肇は賓客に「この子の豪気がこれほどとは、父はいかばかりか」と評し、退出の際は敬意を払って見送った。しかし澄はこれを聞いて大いに怒り、順を数十杖打った。
  • のち中書侍郎に超遷し、太常少卿に転じたが、父の喪に服して哭泣し血を吐き、自ら土を運んで葬った。25歳にして白髪となり、喪が明けると白髪が自然に抜け落ち、世人は孝心の致すところと評した。まもなく給事黄門侍郎となった。
  • 領軍元乂の権勢が盛んになると、昇進のたびに人々は元乂の門に謝礼に赴いたが、順は上表するのみで訪ねなかった。元乂が「なぜ私に会いに来ないのか」と問うと、順は「天子はまだ幼く政を叔父に委ねられた、公のために士を挙げるべきで、恩を売り私に感謝を求めるべきではない」と正色して答えた。朝議でも順は常に鯁直な発言を憚らなかったため、元乂は順を憚り平北将軍恒州刺史として外に出した。
  • 順は元乂に「北鎮は乱れ国の患いとなっている、桑乾は旧都の根本、都督として国のために守りたい」と願い出たが、元乂は兵権を与えることを渋り「これは朝廷の事であり私の裁量ではない」と応じた。順は「叔父は既に国柄を握り生殺を意のままにしているのに、なぜ朝廷などと言うのか」と鋭く返し、元乂はますます順を忌み、安東将軍斉州刺史に転じさせた。順は内職に留まれぬことを憾み、酒に耽り政務を顧みなくなった。
  • 元乂が領軍を解かれると、順は給事黄門侍郎に召還され、親友は入朝を喜んで郊迎したが、順は「入れぬことを心配しているのではなく、入って再び出されることを恐れる」と述べた。まもなく殿中尚書を兼ね、侍中に転じた。中山王熙が元乂討伐の兵を起こして果たせず誅されていたが、霊太后の親政回復後に改葬が許された際、順は西遊園で霊太后に侍り、その一族7人の喪の惨さを訴え、元乂の妻がそば近くにいたにもかかわらず「一妹のために元乂の罪を不問にし、天下に冤を抱かせるのか」と面と向かって諫めた。太后は黙して答えなかった。
  • 就徳興が営州で反乱した際、尚書盧同が討伐に赴いたが大敗して戻った。侍中穆紹と順が同席してこの罪を論じた際、盧同がかつて紹に近くの邸宅を貸していたため紹は盧同を庇おうとしたが、順は「盧同は結局無罪になるだろう」と怒って言い、太后が咎めると「盧同は良い邸宅を要路の侍中に贈っている、罪など恐れていない」と紹を糾弾し、紹は恥じて口をつぐんだ。
  • 霊太后がしばしば華美に装って遊幸するのを、順は「礼では夫の喪にある婦人は未亡人と称し珠玉を去り彩衣を纏わないもの、陛下は天下に母として臨む身で年もまだ若くないのに、過度な着飾りは後世への示しがつかない」と面と向かって諫め、太后は恥じて出御を控えたが、宮中に戻ると順を責めて「千里の外から呼び戻したのは、衆人の中で辱めるためか」と言うと、順は「陛下が盛装で人目を驚かせて憚らないのに、なぜ私の一言を恥じるのか」と切り返した。
  • かつて城陽王徽が順の才名を慕って交誼を結んでいたが、広陽王淵が徽の妻于氏と密通して大きな確執が生じていた。淵が定州から召還されて吏部尚書兼中領軍となった際、順が起草した詔書の辞が過度に美辞であったため、徽は順が淵に与しているのではと疑い、徐紇と共に霊太后に讒言し、順は護軍将軍太常卿に転出させられた。順が西遊園で辞去の挨拶をした際、徽・紇が側にいたが、順は霊太后に向かって「この者たちは魏の宰嚭(呉を滅ぼした佞臣の喩え)だ、魏国が滅びぬ限り死ぬまい」と面罵し、紇が肩をすくめて退出すると、順はさらに声を張り「お前のような刀筆の小人は文書係が分相応、朝廷の重職を汚し彜倫を損なうな」と叱りつけて席を立った。霊太后は黙して答えなかった。
  • 後に父澄の顧命の功が追論され、任城王彝の食邑に2000戸が加増され、さらに彝の邑から500戸を割いて順を東阿県開国公に封じた。順は徽らの讒言を憎み、蠅賦を作ってこれを風刺した。賦は「大道は洪大で、四季の運行の中に蒼蠅のような穢れた小虫が生まれ、白を黒に変え讒言をなす様は、桓公の屍に集い平叔の側に居座り、鶏鳴を乱し宮中の飾りを汚すに等しい。周昌・伊尹・伯奇・申生ら忠臣孝子が讒によって苦しんだ古の例を引き、こうした虫けらは国に益なく、ただ民を乱すだけだ」という趣旨であった。
  • その後、吏部尚書兼右僕射として上省した際、階を登る途中でひどく古びた榻を見て令史徐仵起に問うと「これは先王(高祖)が座られた榻です」と答えられ、順は嗚咽して涙を流し、しばらく言葉を発せなかったため、これを取り換えさせた。
  • 三公曹令史朱暉が録尚書髙陽王雍にしばしば取り入り、雍が朱暉を廷尉評に登用しようとして順に依頼したが、順はこれを用いなかった。雍が独断で任用の命を下すと、順はこれを地に投げ捨てた。雍は激怒し、明け方から都庁に座って尚書・丞郎を集め、順を衆前で辱めようとしたが、順は日が高くなってから現れた。雍は几を撫でて「私は天子の子、天子の弟、天子の叔父、天子の丞相、四海の内で親尊これに並ぶ者なし。元順は何者か、私の命令を地に投げ捨てるとは」と怒鳴った。順は鬚髪を逆立て天を仰ぎ憤然としたが、しばらく沈黙したのち白羽扇を揺らしながら静かに「高祖が中原に遷都して以来、官の清濁には定めた軌儀がある。朱暉のような小役人が廷尉の清官に就くのは相応しくない。殿下は先皇の同気であればこそ、その定めを守るべきで、越えるべきではない」と答えた。雍が「私は丞相・録尚書、なぜ一人も用いてはならぬのか」と重ねると、順は「庖人が庖を治めずとも、尸祝がその代わりに樽俎を扱うことはない、殿下に選事へ参与する別旨があるとは聞いていない」と述べ、さらに「殿下がなおもこう仰るなら、私は事の次第を奏聞するまで」と厳しく告げた。雍はついに笑って「朱暉如きの小人でそこまで怒ることもあるまい」と述べ、順を室に招いて共に酒を酌み交わした。順の剛直さはこの類であった。
  • のち征南将軍右光禄大夫、左僕射を兼ねた。爾朱栄が荘帝を奉じて百官を河陰に召した際、順の直言を惜しんだ栄は朱瑞に「元僕射には来なくてよいと伝えよ」と語ったが、順はその意図を解さず、衣冠の者が殺されていると聞いて逃走を図り、途中で陵戸の鮮于康奴に殺害された。家には壁のみで財産はなく、書物数千巻があるだけだった。門下通事令史王才逹が自らの衣で亡骸を覆った。荘帝が還宮すると黄門侍郎山偉を京邑の巡撫に遣わし、偉は順の喪に臨んで慟哭してやまなかった。荘帝はこれを怪しみ問うと、偉が事情を述べ、荘帝は侍中元祉に「宗室の喪は一つではなく皆に手厚くはできないが、元僕射の清苦の節義は死してなお彰らかだ」と勅し、特に絹百匹を追贈するよう命じ、他は通例通りとしつつも驃騎大将軍・尚書令・司徒公・定州刺史を追贈し、諡は文烈とされた。順は「帝録」20巻、詩賦表頌数十篇を撰したが、今は多くが失われている。
  • 長子朗は当時17歳で、仇討ちを胸に潜伏すること数年、ついに自ら鮮于康奴を斬り、その首を順の墓に祭ったのち朝廷に自首した。朝廷はこれを嘉して罪を問わなかった。朗は書記の役を歴任し司徒属となったが、天平年間に奴僕に殺害され、都督瀛冀二州諸軍事(□□、底本原文闕二字)将軍・尚書右僕射・冀州刺史を贈られた。
  • 順の弟淑、淑の弟悲はいずれも早世した。悲の弟紀、字は子綱は永熙年間に給事黄門侍郎となり、出帝に従って関中で亡くなった。

嵩(澄の弟、字道岳)――武勇と淮南防衛

  • 澄の弟嵩、字は道岳。高祖の代、中大夫から員外常侍に遷り歩兵校尉に転じた。大司馬安定王休が薨じ卒哭前に、嵩は狩猟に出かけたため、高祖は大いに怒り、「己を克め礼に復ることもできず、父のごとき恩ある者の喪に鷹狩に興じるとは、子の情がない」として免官させた。
  • のち沔北平定戦で数々の戦功を挙げ、左中郎将・武衛将軍を兼ねた。高祖の南伐で蕭寶卷の将陳顯逹が拒戦した際、嵩は自ら三仗を身に着け冑を脱いで先陣を切り、将士がこれに続いて顕逹を敗走させ、斬獲は万を数えた。嵩はその日、三軍随一の勇を示し、高祖は大いに喜び「任城康王(雲)の家は徳福厚く、文武の才が門から相次いで出る」と述べ、高平県侯の爵位と帛2500匹を賜った。
  • かつて高祖が洛陽を発つ際、罪により幽閉されていた馮皇后に死を賜ろうとした折、使者の人選に迷い、澄に「任城(澄)は私を裏切らないだろう」と言い、さらに「嵩もまた任城を裏切るまい、嵩を使おう」と述べて嵩を召し、親しく詔を託した。
  • 世宗即位後、武衛将軍兼侍中を経て平南将軍荆州刺史となった。上表して、蕭寶卷が骨肉相残し忠良を殺すため人心が離反していること、寶卷の兄蕭懿(蕭衍の兄)が建業で兵を構えて対峙していること、荆・郢二州刺史が寶卷の弟であることを踏まえ、書を送って内応を誘い、蕭衍を除いた後に沔南の地を収める策を献じたが、蕭衍が先に建業を陥落させたため中止となった。
  • 平北将軍恒州刺史、平東将軍徐州刺史、安南将軍揚州刺史を歴任した。蕭衍の湘州刺史楊公則が2万の兵で洛口に、姜慶真が5千の兵で首陂に屯し、さらに左軍将軍騫小眼・軍主何天祚・張俊興らが7千の兵で陸城を攻囲すると、嵩は統軍封邁・王会らに歩騎8千を率いさせて陸城へ向かわせ、夜逃げする賊を追撃して数千を斬獲、公則・慶真は馬頭へ退いた。蕭衍の徐州刺史昌義之が高皇の兵を潜ませ淮水の浅瀬を突いて隂陵を窺うも、馬頭に屯した蕭衍将田道龍・何景先ら3千が衡山に至って陸城を狙うと、嵩は統軍李叔仁らを合肥・小峴の援護に送り連戦連勝した。
  • 蕭衍の征虜将軍趙革が黄口に屯すると、嵩は軍司趙熾らに討たせ、統軍安伯醜に夜間潜行させ下蔡で伏兵を敷いたところ、趙革が4千の兵で来襲、伯醜と下蔡戍主王虎らが挟撃して大破し、俘斬・溺死は4千に及んだ。徐州の統軍李叔仁らは夜襲で硤石の賊も破った。蕭衍の将姜慶真が肥汭に拠り、冠軍将軍曹天寳が鷄口に、軍主尹明世が東硤石に屯すると、嵩は別将羊引を淮西の賊営から10里の地に進め、司馬趙熾の1万の兵と表裏で呼応し、諸軍が合流して四つの塁を撃破、斬獲数千・溺死万を数えた。統軍牛敬賔が硤石を攻めると明世は夜逃げし、慶真は残兵を集めて淮を下ったが、下蔡戍主王略が流れを截って撃ち、半数以上を捕斬した。これにより嵩の威名は大いに高まった。
  • のち蒼頭(奴僕)李太伯らに謀られ、妻穆氏・子世賢と共に殺害された。世宗は東堂で挙哀し、絹1000匹を賻し、車騎将軍領軍を追贈、諡は剛侯とされた。

世儁(嵩の第二子)――生涯

  • 世儁は才幹があったが行いに難があった。爵を襲ぎ給事中東宮舎人となり、伯父澄の上表で員外散騎常侍に転じた。粛宗の代、嵩の勲功が追論され、衛県開国男食邑200戸に封じられ、冠軍将軍宗正少卿、さらに散騎常侍安南将軍武衛将軍河南尹を歴任、鎮東将軍青州刺史に転じ散騎常侍を加えられた。邢杲の乱で州城が包囲された際、世儁は城を守り抜いて全うした。
  • 荘帝の代、衛将軍吏部尚書となった。爾朱兆が京師に侵攻した際、詔により本官のまま都督として河橋の防守に当たったが、兆が河に至ると当初から拒守する意がなく、対岸から遥拝したため世人はこれを非難した。前廃帝の代、驃騎将軍を経て尚書を加えられ、爾朱世隆に特に取り入られた。出帝の初め、儀同三司を加えられ、武陽県開国子食邑500戸に改封された。世儁は選曹を掌る間、心を厲まさず不正な収賄を重ね、中尉の弾劾を受けて免官されたが、まもなく本職に復した。孝静帝の初め、侍中尚書右僕射を加えられ、尚書令に昇進したが、軽薄で節操なく去就常ならず、晋陽に召された。興和年間に薨去し、侍中都督冀定瀛殷四州諸軍事・驃騎大将軍・太傅・定州刺史・尚書令・開国公(そのまま)を追贈され、諡は躁戻とされた。
  • 子の景遠が散騎侍郎を襲った。世賢の弟世哲は武定年間に吏部郎となった。

贍(嵩の弟、字道周)――生涯

  • 嵩の弟贍、字は道周。高祖の代、□(底本原文闕字)大夫から宗正少卿に遷り、龍驤将軍光州刺史、散騎常侍左将軍を経て、平東将軍兖州刺史に転じた。書史を愛したが貪欲で残忍を好み、澄はこれを深く恥じ憤り、往来を絶った。4子があった。
  • 長子遠は尚書郎となった。

史論

  • 史臣曰く。顕祖が禅譲を図った際、康王雲が敢然と朝廷で諫言したことは国の大節と言うべきであり、その言葉は明らかであった。まさに一言で国を興したというのはこのことである。文宣王澄は貞固にして俊逸、宗室の傑物として世に聞こえ、代々の朝廷にあって危難の中で国を安んじ、社稷の重責を担った、まさに国の梁棟と頼むべき人物であった。順は謇諤で汲黯の風があったが、時に用いられず非命に横死したのは惜しまれる。嵩には行陣の気概があり、儁(世儁)は節操を失った裂冠の徒というべきであろうか。