魏書卷十九中 列傳第七中 澄

雲の長子澄、字は道鎮。文明太后・高祖に重用され、遷都洛陽の議で高祖を助けてこれを実現させたほか、恒州刺史穆泰の謀反を鎮圧するなど宗室随一の重臣として仕えた。世宗・霊太后期にも尚書令・司徒公などを歴任し、しばしば直言の上奏を行った。

年表(2件)
  • 正始末に百司昇進の詔で刺史守令が漏れた不備を是正するよう上奏する
  • 神亀2年519年53歳で薨去し諡は文宣王とされる

雲――出自と生涯

  • 任城王雲は景穆太子(恭宗)の子。5歳のとき恭宗が崩じ、慟哭してやまなかった。世祖(太武帝)がこれを聞いて抱き上げ、「お前は幼いのに、なぜそんなに大人びた心があるのか」と泣きながら言ったという。
  • 和平5年(464年)、使持節・侍中・征東大将軍・和龍鎮都大将に封拝された。顕祖(献文帝)の代には都督中外諸軍事・中都坐大官を拝し、民の訴訟を裁いて評判が高かった。
  • 延興年間(471-476年)、顕祖は群臣を集め、京兆王子推への禅位を図ったが、誰も先に諫言できずにいた。雲は進み出て、父子相伝の原則を破り天下の宗廟社稷を乱すことは先聖の意に非ずと諫めた。太尉源賀も同調し、昭穆の乱れと後世の譏りを懸念した。一方、東陽公元丕らは、皇太子(のちの高祖)がまだ幼いことを理由に禅譲を支持した。顕祖は最終的に「儲宮は正統であり文祖より受け継いだもの、群公が輔弼すれば何の不都合もない」と述べ、高祖に伝位した。
  • のち蠕蠕(柔然)が塞を犯すと、雲は中軍大都督として顕祖に従い大磧で迎撃した(詳細は蠕蠕伝)。仇池の氐が反乱すると、雲は征西大将軍としてこれを討平した。
  • 都督徐兖二州縁淮諸軍事・征東大将軍・開府・徐州刺史に転じた。太妃蓋氏の喪により解任を願い出るも顕祖は許さず、雲が悲しみのあまり病を得るに及んでようやく許した。撫恤に長け、徐方の民心を得て、離任時に贈られた銭貨を一切受け取らなかったため、顕祖はこれを嘉した。
  • 侍中・中都大官に復し、帛千匹・羊千口を賜り、冀州刺史(本将軍のまま)として出向いた。政事に心を尽くし民情を得たため、州の民は戸ごとに絹五尺・粟五升を納めて雲の恩に報いた。高祖はこれを嘉し、使持節都督陝西諸軍事・征南大将軍・長安鎮都大将・雍州刺史に昇進させた。
  • 雍州では廉直に自らを律し、獄訟に心を配り豪強を挫き、群盗を鎮めた。頌徳する州民は千余人に及び、文明太后は帛千匹を賜った。
  • 太和5年(481年)、州で薨去。遺言で薄葬を命じ賻贈を受け取らぬよう子らに指示し、子らはこれを守った。柩が京師に到着すると、帝自ら哭して哀慟し、本官のまま贈られ、諡は康とされ、雲中の金陵に陪葬された。

出自と若年期

  • 雲の長子澄、字は道鎮。若くして学を好んだ。父康王(雲)の喪に孝を尽くし、爵を襲い征北大将軍を加えられた。
  • 高祖の代、蠕蠕が塞を犯すと、澄は使持節都督北討諸軍事として討伐に赴き、蠕蠕は逃走した。氐羌の反乱に際しては都督梁益荆三州諸軍事・征南大将軍・梁州刺史となった。文明太后は澄を引見して激励し、中書令李沖に「この子は風格・言動に優れ、必ず宗室の領袖となる。この任に必ず私の意にかなうだろう」と語った。
  • 梁州の氐族の首長、楊仲顯・婆羅・楊卜兄弟や符叱盤らは辺境の険しさを恃んで凶狡であったが、澄は着任すると風俗に応じて誘導・懐柔し、婆羅を仲顯に、楊卜を広業太守に、叱槃を固道鎮副将にそれぞれ推挙して任用し、他の首長も才に応じて用いた。帰順する者には賞を、命に背く者には誅を加えたため、仇池は帖然と服し西南も帰順した。侍中を加えられ、衣一襲・馬一匹を賜ってその功を旌された。

子産の問答と遷都への献策

  • 後に征東大将軍・開府・徐州刺史に転じ、治績を挙げた。京師に朝見した際、皇信堂で引見され、高祖は「鄭の子産が刑書を鋳造し、晋の叔向がこれを非難した。二人はいずれも賢士だが、いずれに理があるか」と問うた。澄は「鄭は弱国で強隣に脅かされ、民情が離反しがちだったため刑書を鋳て威を示した。古法には反するが時に応じ世を救う道であり、子産は正しく、叔向の批判は古を忘れぬ議論に過ぎない」と答え、高祖は深く感心し「任城は魏の子産たらんとするのか」と笑った。澄は「子産の道は当時に合ったもの、私如きが及ぶものではない。ただ江南がいまだ服さぬ今、子産の法を暫く用い、天下大同ののちは徳化によるべき」と答え、高祖はその答えを喜んだ。
  • 中書令に召され、のち尚書令に転じた。蕭賾(南斉)の使者庾蓽が来朝し、澄の音韻の雅やかさと風儀の秀逸さを見て、主客郎張彝に「かつての任城は武で名高かったが、今の任城は文で優れている」と評した。
  • 皇信堂での宗宴で、高祖は昭穆の序で家人の礼を行い、澄に七言連韻の詩を作らせ、夜まで唱和を楽しんだ。
  • 高祖は南討を名目に遷都を計画し、明堂の左个で太常卿王諶に亀卜・易筮を行わせたところ革の卦が出た。高祖は「湯武革命、天に順い人に応じる卦だ」と述べたが、群臣は誰も異を唱えなかった。澄だけが進み出て、「革とは更えるの意で、湯武にとっては吉だが、陛下は既に代々天下を保っておられ、これは叛を伐つ卦であって革命の卦ではない」と反論した。高祖は色をなして「大人虎変(革の卦の言葉)とあるのに、なぜ不吉というのか」と怒ったが、澄は「陛下の龍興は既に久しく、虎変とは同じにできない」と重ねて答えた。高祖はさらに「社稷は我が社稷、任城は衆を沮もうとするのか」と怒ったが、澄は「社稷は陛下のものと知りつつも、私は社稷の臣として愚衷を尽くすのみ」と答え、高祖はしばらくして怒りを解いた。
  • 車駕が宮に還ると、高祖はすぐに澄を召し、「先の革卦の議論をもう一度話したい。明堂での怒りは、衆人が我が大計を阻もうとするのを恐れたための芝居であった」と本心を明かした。そして「国家は北土に興り平城に遷ったが、天下を富有しても文物典章はいまだ一つでない。ここは武を用いる地であり、風俗を移すのは難しい。崤函・河洛こそ帝王の宅であり、中原に都を定めたいが、任城はどう思うか」と問うた。澄は「伊洛は天下の中心、陛下が華夏を制し九服を統べれば、蒼生はこれを大慶とするだろう」と答えた。高祖が「北人は本を慕い、突然の遷都に驚くだろう」と言うと、澄は「非常の事は非常の人でなければ知り得ない、ただ聖慮で決すればよい」と答え、高祖は喜んで「任城はまさに我が子房(張良)だ」と述べ、撫軍大将軍・太子少保を加え、尚書左僕射を兼ねさせた。

遷都の実現と代都への説得

  • 車駕が洛陽に至り遷都の策を定めると、高祖は詔して、遷都の可否を代都の百司に諮るため澄を馳駅させて派遣した。澄が代都に至ると、遷都の詔を聞いた衆人は驚愕したが、澄は古今の例を引いて丁寧に説き、衆はついに服した。澄は南へ馳せ戻り、滑台で車駕に合流して復命し、高祖は「任城がいなければ、朕の事業は成らなかった」と大いに喜んだ。
  • 鄴宮への行幸に従い吏部尚書となった。高祖が代への北巡に赴く間、澄は留まって旧臣の銓衡を担当し、魏の公侯以下選ばれる臣が万を数えるほど冗散であったのを、澄は三等に品評してその優劣・能否を用い、恨む者がなかった。車駕が洛京に還ると、右僕射を兼ねた。
  • 高祖が北邙から洪池に行幸し、澄を龍舟に侍らせて詩を賦させた際、高祖は「昨夜、白髪の老人が衣冠を正して道端に拝立する夢を見た。晋の侍中嵇紹だと名乗り、神霊が卑しく懼れて何かを求めているようだった」と語った。澄は「嵇紹は晋の乱に身をもって主を守り殉じた忠臣、比干も紂王の兇虐に諫死した殷の良臣。二人とも墳墓は道のほとりにある。陛下が殷洛に御し瀍水のほとりを経て比干を弔いながら、洛陽に至って嵇紹を弔わなかったため、恩を望んで夢に現れたのでしょう」と答えた。高祖は感じ入り、比干と嵇紹への礼を改め、使者を遣わして嵇紹の墓を弔祭させた。

南討をめぐる論争

  • 蕭鸞が蕭昭業を殺して自立すると、雍州刺史曹虎が襄陽を挙げて内附を願い出た。車駕が自ら赴こうとする中、豫州も曹虎の誠意を上表し、高祖は澄・咸陽王禧・彭城王勰・司徒馮誕・司空穆亮・鎮南李沖らを集めて是非を議した。
  • 高祖は澄と李沖に留まる論を、自らは進発する論を立てさせて討議させた。李沖らは「民がようやく新都に安んじたばかりで、軽々しく動かすべきでない」と説き、高祖は「款誠が実ならば会稽・江北を得る好機、虚報でも江淮を巡撫すればよい、款を退けて撫さねば国の大計を損なう」と反論した。澄は「新都の民は本郷を恋しく思い、家に一椽の屋も一石の糧もない状態で兵役に就かせるのは酷、農繁期でもあり、まず三軍を援護せず款が実ならば力を蓄えて後に動くべき」と諫めた。しかし司空穆亮は進発を支持し、公卿もこれに同調したため、澄は亮を「聖顔の前と裏とで言うことが違う佞臣」と厳しく非難し、李沖は「任城こそ社稷に忠、外にあって皆征行を憚りながら異口同音に賛成するのは異常」と擁護した。
  • 高祖は「任城は我に従う者だけが忠ではないと言うのか」と澄を詰ったが、澄は「愚闇ゆえ大理は分からぬが、たとえ小忠でも誠を尽くすのみ」と答えた。高祖はさらに「任城が三公の位に就けば大忠を独占しようというのか」と問うたが、澄は「才乏しく公鉉に居ることなど望んでおらず、ただ職分を尽くすのみ」と答え、高祖は大笑した。澄はさらに亮に対し、漢の汲黯が武帝の前で公孫弘を面折し、公孫弘の質素な暮らしを偽りと断じた故事を引き、亮に長者の言を思うよう諭した。高祖は「任城は自らを汲黯になぞらえるのか」と笑った。
  • 結局南伐が行われ、澄は五等の食邑千戸を開いた。懸瓠まで従軍したが篤い病のため京師へ還され、車駕は汝濆で詩を賦して澄を見送った。

清徽堂の宴と穆泰の乱鎮圧

  • 車駕が洛陽に還り、清徽堂で王公・侍臣を引見した宴では、堂内の曲水・洗煩池・観徳殿・凝閑堂など諸堂の命名の由来を高祖自ら説き明かし、澄も魚藻の詩や周の霊沼の故事を引いて応じた。茅茨堂では李沖に唐虞と元凱の故事を引いて語りかけ、崔光・郭祚・邢巒・崔休らに賦詩を命じた。李沖は千万歳の寿を上げ、高祖は南山の詩に喩えて応じた。
  • 鄴への行幸に従って洛に還り、出納の労により食邑500戸を加増されたが、公事に坐して一時免官、まもなく吏部尚書・恒州刺史を兼ねた。
  • このころ恒州刺史穆泰が州で謀反を企て、朔州刺史陽平王頤を主に推そうとした。頤がその状を上表すると、高祖は澄を凝閑堂に召し、「穆泰が宗室を誘って不軌を謀っている。遷都したばかりで北人は旧を慕っており、洛陽が立ち行かなくなる恐れがある。任城でなければこの事は処理できない」と鎮圧を託した。澄は「泰らは旧地を慕う愚かさに過ぎず、遠大な企てはない。命に代えても平定する」と応じ、節・銅虎符・竹使符・御仗左右を授かり恒州事を代行することとなった。
  • 澄が鴈門に至った夜、泰が既に兵を握り陽平城下に集結していると知らせが入った。右丞孟斌は勅命を待って諸州の兵を合わせてから動くべきと進言したが、澄は「泰が堅城を頼らず陽平を迎え入れたのは、その勢いが弱い証。無用に発兵せず速やかに鎮圧すれば民心は自ずと定まる」と判断し、道を倍にして急行、不意を突いて治書侍御史李煥を先発させ穆泰を捕らえた。民情は穏やかに服し、党与を追及して鉅鹿公陸叡・安楽侯元隆ら百余人を全て獄に繋ぎ、詳細を表奏した。
  • 高祖は表を見て大いに喜び、公卿以下を集めて「任城はまさに社稷の臣、皋陶(伝説の名裁判官)もこれに勝るまい」と称賛した。車駕が平城に幸して澄を労うと、澄は「陛下の威霊が遠く及んだためで、罪人は逃げようがなかった。私に何の労がありましょう」と答え、逆徒を引見しても誰一人冤を訴える者がなかったため、人々は感嘆した。高祖は「孔子は『訟を聴くのは私も人並みだが、必ずや訟のない世にしたい』と言ったが、今日それを見た」と述べた。澄は尚書に復し、高祖の南伐中は留守として右僕射を兼ね、国秩一年分の租布帛を軍資に充てるよう上表し、詔でその半分が受け入れられた。

高祖との問答と南征の功

  • 高祖が鄴に幸した際、高車の樹者が反乱すると自ら討伐に赴こうとしたが、澄は親征に反対する上表を行い、江陽王継が平定したため中止となった。
  • 洛に還った高祖が「礼教は日々新たになっているか」と問うと澄は「日新である」と答えた。高祖が「昨日城内で見た車上の婦人が冠帽をつけ小襦襖を着ていたが、なぜ尚書は取り締まらないのか」と問うと、澄は「着ている者は着ていない者より少ない」と答えたが、高祖は「怪しむべきことだ、任城は皆に着せたいのか」と重ねて詰り、「一言で国を喪うとはこのことだ、史官に記させよ」とまで言った。高祖はさらに人材登用の不備を嘆き、澄が「私は署事するのみ」と応じると、高祖は「それなら一令史で足りる、なぜ任城を待とうか」と皮肉り、また宣詔を舎人が小人に聞かせたことを詰ったが、澄が「時に幹吏はいたが、掲示は遠かった」と弁じると、高祖は「遠ければ聞こえず、聞こえれば遠くない」と応酬し、留守の群臣は免冠して謝罪した。
  • まもなく尚書右僕射に転じた。蕭寶卷が太尉陳顯逹を遣わして漢陽に侵入させた際、高祖は病篤く、澄を清徽堂に召し「顕逹の侵乱を親征で払えないほど朕の病は重い、任城が大事を担え」と詔した。澄は涙して従うことを誓い、南伐に従軍した。高祖が崩御すると、澄は顧命を受けた。

世宗朝の免官と復権

  • 世宗の初め、降人厳叔懋が尚書令王肅の謀反(孔思逹を通じて蕭寶卷と通じたとの訴え)を告発した。寶卷が使者兪公喜を遣わして王肅に勅を送り、公喜が南へ戻る際に裴叔業を証しとして王肅に伝えたため、澄はこれを信じて王肅が叛くとして上表し、直ちに禁錮した。しかし咸陽王・北海王が澄の擅断を弾劾し、澄は免官・帰宅させられた。
  • まもなく平西将軍梁州刺史に任じられたが母の老いを理由に辞退し、安東将軍相州刺史に改められたが固辞、さらに安西将軍雍州刺史に改められた。まもなく季秋の講武に召還され、都督淮南諸軍事・鎮南大将軍・開府・揚州刺史となった。着任すると孫叔敖の墓を封じ、蔣子文の廟を毀した。しばしば南伐を上表するも世宗は許さず、母の老いを理由に辞任を願うも留め置かれ、散騎常侍を加えられた。
  • 澄は上表して、かつて高祖に仕えた頃の学問と礼教への思いを述べ、先帝の学宮(四門小学)が高祖崩御後に廃れたことを憂い、皇宗の学の復興と四門の教えの再興を求めた。詔で「胄子の教育は久しく廃してはならない、尚書が適宜修立せよ」と許された。澄はまた母の疾により州任の解任を求めた。

淮南の攻防と九山・東闗の戦

  • 蕭衍の将張囂之が夷陵の戍を陥落させると、澄は輔国将軍成興らを遣わして歩騎で大破し、夷陵を奪還、囂之は逃走した。長風戍主竒道顯は蕭衍の陰山戍を攻め破り、寧朔将軍関内侯呉道爽を斬った。白稾戍でも龍驤将軍都亭侯梅興祖を斬って破った。
  • 澄は上表し、蕭衍がしばしば東闗を断ち巣湖を氾濫させて淮南諸戍を水没させようとしている情勢を報告し、諸州の兵馬を集めて先制すべきと説いた。詔により冀・定・瀛・相・并・済の六州から二万人・馬千五百匹を発し、秋までに淮南に集結させ、寿陽の先兵三万と合わせ澄に経略を委ねた。東揚州刺史蕭寶夤、江州刺史陳伯之の二鎮を澄が総督することとなった。
  • 東闗の水利上の要衝としての重要性(東闗で水を放てば陽石・合肥が脅かされ、大峴の険を扼せねば歴陽が危うい等)を踏まえ、統軍傅豎眼・王神念らを大峴・東闗・九山・淮陵に分進させた。王神念は闗要の潁川二城を破り蕭衍軍主費尼を斬り、寧朔将軍韋惠・龍驤将軍李伯由が大峴を固守すると澄は統軍党法宗・傅豎眼らを送って撃破、白塔・牽城も数日で陥落させ、蕭衍の青溪戍も敗走した。徐州刺史司馬明素が九山救援に向かうと、徐州長史潘伯隣が淮陵を固守し、寧朔将軍王夑が焦城に拠ったが、法宗が焦城を攻略し淮陵を破って明素を捕らえ伯隣を斬った。済陰太守王厚彊・廬江太守裴邃も敗走した。
  • 高祖(世宗の誤りではなく詔の主体として原文のまま)は澄を「文徳内に昭らかにして武功外に暢び、大略を奮い江呉を蕩そうとしている」と詔で称えた。この間、蕭衍の将姜慶真が寿春の外郭を襲ったが、斉王蕭寶夤がこれを撃退、長史韋績は坐して免官されたが、澄は在外で無関係とされた。澄はさらに鍾離を攻め、詔で食糧の状況・淮水の水位を見て柔軟に対応するよう命じられた。
  • 蕭衍配下の冠軍将軍張惠紹・遊撃将軍殷暹・驍騎将軍趙景悅・龍驤将軍張景仁らが五千の兵で鍾離に糧を送ると、澄は統軍王足・劉思祖らに迎撃させ大破し、張惠紹・殷暹・張景仁および屯騎校尉史文淵ら軍主以上27人を捕らえた。しかし雨が降り淮水が増水したため引き揚げる際、四千余人を失う失態を演じ、澄はしばしば州任の解任を上表したが許されず、有司の奏により開府の号を奪われ三階降格された。
  • のち蕭衍が張惠紹の返還を求めた際、澄はこれに反対する上表を行ったが、詔で八座に議させ、尚書令広陽王嘉らが返還を可とし、詔もこれに従った。

定州刺史から霊太后擁立まで

  • 鎮北大将軍定州刺史に転じた。従来民に対する横調(不当な徴発)が苦しめられていたのを、澄は多くを省減し、黜陟賞罰の法を明らかにした。公園の地を削減して無産の貧民に分け与え、衣に適さない粗悪な布絹の製造を禁じた。母孟太妃の喪に孝を尽くして世に称えられ、喪が明けて太子太保となった。
  • このころ高肇が朝政を専らにし賢戚を猜忌したため、澄は高肇に間構されることを恐れ、終日酒に溺れて荒廃を装った。世人はこれを狂と評した。世宗が夜に崩御すると、高肇は外に兵を擁し、粛宗(孝明帝)は幼く朝野は不安に包まれた。澄は疎斥されて機要に与らなかったが、朝望は澄に集まり、領軍于忠・侍中崔光らが澄を尚書令に推挙する奏を行うと、衆心は安堵した。散騎常侍・驃騎大将軍を加えられ、まもなく司空に転じ侍中を加えられ、さらに尚書令を領した。

霊太后期の数々の上奏

  • 正始末に百司を一律昇進させる詔が下った際、刺史守令が漏れて対象とならなかった不備を、澄は封回・元匡の例を挙げて是正するよう上奏した。
  • 訴訟について「先朝で経た事案は再審しない」との詔が下ると、澄は「堯は諫鼓を、舜は誹謗の木を設けた。歴代の帝が過ちを改めることを渇望してきたのに、先朝の判断を絶対視して塞ぐのは元元の望みに反する」と反論し、詔でいったん「三皇異軌五代殊風」と反論されたが、澄が再度上奏すると旧制に戻された。
  • 澄は「皇誥宗制」「訓詁」各一巻を上表し、皇太后の勧戒の一助にと願った。また利国済民の十条を上奏した。すなわち、一に律度量衡の統一、二に学校の興隆と黜陟の明確化、三に興滅継絶(絶えた家の再興)、四に五調以外の徭役の民力3日以内への制限、五に地方官の黜陟による賞罰の徹底、六に逃亡代輸の緩和、七に辺兵逃亡者の厳密な検察と冤罪防止、八に工商世業戸の租調免除、九に三長制の隣保の整理統合、十に羽林虎賁の常戍を蕃兵交代とすること、である。霊太后はこれを百官に議させたが、賛否両論あり実施には至らなかった。
  • 四中郎将の兵力が薄弱なため、東中を滎陽郡に、南中を魯陽郡に、西中を恒農郡に、北中を河内郡に配属させ精鋭を配すべきと上奏したが、霊太后は当初これに従おうとしたものの、議論の末に見送られた。澄はさらに武備強化(郎将が兵を領し民職を兼ねることで官を省き実を得る策)を重ねて上奏したが、これも採用されなかった。
  • 遠鎮に至った流民が衣食に窮して死者が多く出たため、妻子にも一年分の糧を支給するよう上奏し、許可された。
  • 蕭衍が浮山で淮水を堰き止め寿春を水攻めにしようとした際、澄は使持節大将軍大都督南討諸軍事に任じられ十万の兵を統率して彭・宋方面に出兵しようとしたが、堰が自壊したため中止となった。
  • 北辺の鎮将の人選が軽んじられていることを憂え、重鎮の将の選任と警備の厳格化を求めたが詔で退けられ、案の定、賊虜が侵入して旧都に至り、山陵に迫る事態となった。澄はさらに都城の府寺が未整備であるとし、諸職人や司州郡県で杖十以上百鞭以下の罪を犯した者から絹一匹につき塼二百を収めさせて修造費に充てる案を上奏し、詔で許可されたが、太傅清河王懌の上表により実施されなかった。
  • 司州牧高陽王雍が奉朝請韓元昭・前門下録事姚敬賢を拷問死させた事件について、澄は「理由が十分でないまま杖下で命を奪うのは理を傷け法を敗る」と厳しく弾劾し、廷尉での再審を求める上奏を行い、詔で許可された。
  • 墾田授受の制度8条を上奏し、大いに理にかなうものとして評価された。尚書の機密文書の取り扱いについて、公車署が原案を要求した際、澄は「尚書は政の根本であり、機密の漏洩を防ぐべき」と主張し、詔で認められた。
  • 西域の嚈噠・波斯などの諸国が公使を通じて澄個人に駿馬一匹ずつを贈った際、澄はこれを太僕に納めて国用に充てるよう請い、詔は「王の廉貞の徳は楚の宰相にも勝る」と称賛し、廐に納めさせた。
  • 御史中尉東平王匡が景明元年以来の内外の考課簿・吏部除書・中兵勲案などを取り寄せて偽階盗官の摘発に用いることを求め、霊太后が許可すると、澄は「老子曰く、法令が煩雑になるほど盗賊は増える。治の要は省事清心にあり、漢文帝の獄訟わずか四百に至った故事、蕭何・曹参の清静の政こそ本である」と反論する上表を行い、霊太后は納得してこれを中止した。
  • のち司徒公・侍中・尚書令(そのまま)に累進した。澄はさらに、世宗の武功を継ぎ蕭衍が老いて綻びを見せている今こそ国力を養うべきとする長文の上奏を行い、財政の緊縮と軍備の充実、人材登用の重視を説いた。あわせて霊太后が永寧寺・太上公寺など仏事に莫大な費用を投じ、諸州にも五級仏図を建てさせ、斎会の施物が万を数えるほどであることを憂い、金銀の価格が高騰し民が土木の労に疲弊している実情を諫めたが、結局採用されなかった。それでも霊太后は常に澄を優遇し、大小の政に参決させ、澄も民に不便な事があれば必ず諫争し、用いられなくとも止めなかったため、内外はみな澄を敬憚した。

薨去

  • 神亀2年(519年)、53歳で薨去した。布1200匹・銭60万・蝋400斤を賻贈され、東園温明祕器・朝服一具・衣一襲を給され、大鴻臚が喪事を監護した。詔により百官が喪に興し、仮黄鉞・使持節都督中外諸軍事・太傅領太尉公を贈られ、九錫に準じる殊礼(晋の大司馬斉王攸の故事による)を加えられ、諡は文宣王とされた。葬儀の飾りは盛大で、霊太后は自ら郊外まで見送り、輿を停めて悲哭し、周囲の者も哀しみに動かされた。会葬者は千余人に及び、当時の人々は「哀栄の極み」と評した。第四子彝が爵を襲いだ。

彝(澄の第四子)――生涯

  • 彝、繼室馮氏の所生で、父の風格を頗る受け継いだ。通直散騎常侍を拝したが、元乂が専権した際、阿附を恥じたため顕職を得られなかった。荘帝の初め、河陰の変で殺害され、車騎将軍・儀同三司・青州刺史を贈られ、諡は文とされた。
  • 子の度世が爵を襲ぎ、武定中に金紫光禄大夫となったが、斉の受禅で爵位を例により降格された。