魏書卷八 帝紀第八 世宗紀
世宗宣武皇帝(諱恪、483–515年)。髙祖孝文皇帝の第二子。太和二十三年(499年)、魯陽で即位した。南朝梁との戦いで漢中・義陽・寿春方面の攻防を繰り広げ、鍾離では大敗(正始四年)したものの、益州方面の西征では戦果を挙げた。仏教を篤く信仰し講経を好んだ。延昌四年(515年)、式乾殿で崩御。
出自と生い立ち
- 世宗宣武皇帝、諱は恪。髙祖孝文皇帝の第二子で、母は髙夫人。初め母が日に追われて牀下に隠れる夢を見たが、日が龍に化けて身に巻きつき、驚いて目覚めた後に娠を得たという逸話がある。太和七年(483年)閏四月、平城宮で誕生。
- 太和二十一年(497年)正月丙申、皇太子に立てられた。太和二十三年(499年)夏四月丁巳、魯陽で即位。大赦天下。帝は諒闇(服喪)に居て政を宰輔に委ねた。
太和二十三年(499年)
- 五月丙子朔、髙麗国が朝貢。六月乙卯、侍臣を郡国に分遣し民の疾苦を問い守令を考察・黜陟させ、文武の隠逸で徳のある者を礼遇させた。戊辰、皇妣を文昭皇后に追尊。
- 秋八月戊申、遺詔により髙祖の三夫人以下をみな家に帰した。癸丑、宮臣の位を一級増す。癸亥、南徐州刺史沈陵が南叛。冬十月辛未、鄧至国王像舒彭が来朝。丙戌、長陵に謁す。丁酉、太廟で祭祀。十一月、幽州の民王恵定が明法皇帝を自称し反乱、刺史李肅が捕斬。この年、州鎮十八の水害・飢饉に開倉賑恤。髙麗国が朝献。
景明元年(500年)
- 正月壬寅、長陵に謁す。乙巳、大赦改年。丁未、蕭寳巻の豫州刺史裴叔業が夀春を挙げて内属、驃騎大将軍彭城王勰が車騎十万を率い赴いた。二月戊戌、彭城王勰を再び司徒とした。寳巻の将胡松・李居士が万余の衆で宛に屯し、陳伯之の水軍が淮を遡って夀春に迫った。
- 夏四月丙申、彭城王勰・車騎将軍王肅がこれを大破し首万数を斬った。己亥、皇弟恌が薨去。五月甲寅、北鎮の大飢饉に兼侍中楊播を派遣し撫恤。六月丙子、司徒彭城王勰が大司馬に進位、車騎将軍王肅に開府儀同三司を加えた。癸未、大陽の蛮酋田育丘らが戸を率い内属。
- 秋七月、寳巻がまた陳伯之に淮南を寇させた。庚子、吐谷渾国が朝献。八月乙酉、彭城王勰が伯之を肥口で破る。乙未、髙麗国が朝貢。九月乙丑、東豫州刺史田益宗が寳巻の将呉子陽・鄧元起を長風で破る。齊州の民柳世明が衆を集め反乱。
- 冬十月丁卯朔、長陵に謁す。庚寅、齊兗二州が世明を討ち平定。丁亥、彭城王勰を司徒・録尚書事に改任。甲午、夀春に兵四万を配備する詔。十一月己亥、荆州刺史桓道が寳巻の下笮戍を攻め抜き降者二千余戸。丁巳、陽平王頣が薨去。この年、十七州が大飢饉で開倉賑恤。この冬、島夷蕭衍が挙兵して東下し、その主蕭寳巻を伐った。
景明二年(501年)
- 正月丙申朔、長陵に謁す。庚戌、帝が初めて親政、遺詔により司徒彭城王勰を王として第に帰らせた。太尉咸陽王禧を太保に進位、司空北海王詳を大将軍・録尚書事とした。丁巳、太極前殿で羣臣を引見し親政の意を告げた。辛酉、髙麗国が朝献。壬戌、太保咸陽王禧に太尉を領させ、大将軍広陵王羽を司徒とした。政務の刷新に努める旨の詔を発した。
- 二月庚午、宿衛の官の位を一級進める。甲戌、大赦天下。三月乙未朔、軍旅後の正調外の妨害を一時免除する詔。辛亥、州刺史の怠慢を戒め尚書に条制を示させる詔。壬戌、州府の佐史を簡素化する詔。青齊徐兗四州が大飢饉で民の死者は万余口。この月、蕭衍が寳巻の弟南康王寳融を主に立て年号を中興とし東の建業へ向かった。
- 夏五月壬子、広陵王羽が薨去。壬戌、太保咸陽王禧が謀反し賜死。六月丁亥、諸州刺史を考課し黜陟した。秋七月乙巳、蠕蠕が塞を犯す。乙未、東豫州刺史田益宗が蕭寳巻の将黄天賜を赤亭で破る。辛酉、大赦天下。壬戌、車騎将軍儀同三司王肅が薨去。
- 九月丁酉、畿内の夫五万五千人を発し京師三百二十三坊を築き四旬で完成。己亥、皇后于氏を立てた。乙卯、夀春の営戸を揚州民とした。冬十月丁卯、吐谷渾国が朝献。辛未、蕭寳巻の零陵戍主華侯が戸を率い内属。十一月丙申、驃騎大将軍穆亮を司空とした。丁酉、大将軍北海王詳を太傅・領司徒とした。壬寅、圜丘を伊水の陽に改築、乙卯に祭祀。十二月、髙麗国が朝貢。この月、寳巻の直後張齊がその主寳巻を殺し蕭衍に降り、衍が建業を克した。
景明三年(502年)
- 二月戊寅、旱害により骸骨露出の地を埋葬させる詔。三月、魯陽の蛮が反乱、蕭寳巻の弟建安王寳夤が来降。夏四月、撫軍将軍李崇に魯陽の反蛮を討たせた。この月、蕭衍がまたその主寳融を廃し僭立、国号を梁とした。閏月丁巳、司空穆亮が薨去。
- 五月、揚州小峴戍主党法宗が蕭衍の大峴戍を襲い破り龍驤将軍邾菩薩を捕らえ京師に送った。秋七月癸酉、于闐国が朝献。従征・宿衛の文官に二階、閑散の官に一階を加える詔。八月癸卯、蕭寳融の鎮南大将軍江州刺史陳伯之が使者を送り降を請う。乙卯、前太傅平陽公丕を三老とした。
- 九月丁巳、鄴へ行幸。丁卯、殷の比干の墓を弔う使者を送る詔。戊寅、鄴南で閲武。庚辰、武興国世子楊紹先が朝献。冬十月、度子帝(原文ママ)が自ら遠く一里五十歩を射、羣臣がその射所に銘を勒した。甲辰、還宮。
- 十一月己卯、京洛の兵が久しく整わなかったことを憂い、来月中旬に吉日を選び移御する詔(洛陽への遷都完成を受けた宮室整備)。十二月戊子、農桑を政の本とし千畝に宮壇を開き自ら耒を秉り億兆を勧める詔。壬寅、太極前殿で羣臣を饗し布帛を賜う(新殿完成に因む)。甲辰、揚州が蕭衍の将張囂之を破り首級二千を斬る。この年、疏勒・罽賓・婆羅捺・烏萇・阿喩陁羅婆・不崘陁・抜羅弗・波女提・斯羅噠舎・伏耆奚那・太羅槃・烏稽・悉萬斤・朱居槃・訶盤陁・撥斤・厭味・朱沴洛・南天竺・持沙那斯頭ら諸国が朝貢。河州が大飢饉で死者二千余口。
景明四年(503年)
- 正月乙亥、千畝で籍田の礼。梁州の氐楊会が反乱、行梁州事楊椿・左将軍羊祉に討伐させた。三月己巳、皇后が北郊で先蚕の礼。庚辰、揚州が蕭衍の将を隂山で破り龍驤将軍呉道爽ら数千級を斬る。
- 夏四月癸未朔、蕭寳夤を鎮東将軍・東揚州刺史とし丹陽郡開国公・齊王に封じた。庚寅、南天竺国が辟支仏牙を献上。戊戌、酷吏の弊害を戒め尚書に京師の見囚の審理を尽くさせる詔。己亥、旱害により帝は膳を減じ懸を徹す。辛丑、大雨あり。
- 五月甲戌、楊椿・羊祉が反氐を大破し数千級を斬首。六月壬午朔、皇弟悦を汝南王に封じた。丙戌、冀・定・瀛・相・并・済六州から二万人・馬千疋を発し夀春に増配。秋七月乙卯、三老平陽公元丕が薨去。庚午、塩池の利を公に収める詔。辛未、彭城王勰を太師とした。
- 八月庚子、史部尚書元英を仮鎮南将軍とし蕭衍の義陽を攻めさせた。勿吉国が楛矢を貢ず。辛丑、河南城離宮に行幸。冬十一月壬子、揚州が蕭衍軍を大破し徐州刺史潘佃憐を斬り司馬明素を擒えた。己未、武興国世子楊紹先をその国王とした。癸亥、尚書左僕射源懐に代都北鎮を撫労させた。乙亥、鎮南将軍元英が蕭衍の将呉子陽を白沙で大破し千数を擒斬。十二月庚寅、鎮南将軍李崇に東荆の反蛮を討たせた。丙申、先朝の制度の維持と疑闕の速報を求める詔。癸卯、蕭衍の梁州刺史平陽県開国侯翟遠・徐州刺史永昌県開国侯陳虎牙が降伏。
正始元年(504年)
- 正月庚戌、江州刺史曲江公陳伯之が蕭衍の将趙祖悦を東闕で破る。丙辰、東荆州刺史楊大眼が羣蛮樊季安らを大破。丙寅、大赦改年。二月戊子、蕭衍の将姜慶真が夀春外郭を襲陥、州軍が撃退。丁酉、揚州統軍劉思祖が衍の衆を邵陽で大破し冠軍将軍邵陽県開国侯張恵紹・驍騎将軍祁陽県開国男趙景悦ら十将を擒え数千級を斬獲。
- 三月壬申、元英が衍の将王僧炳を樊城で破る。夏四月辛卯、髙麗国が朝献。五月丁未朔、太傅北海王詳が罪により庶人に廃された。六月、旱害により楽を徹し膳を減じた。癸巳、旱害を自らの不徳と責め旧典に依り六事を行う詔。甲午、帝が旱害のため太廟に自ら薦享した。戊戌、首陽山に周旦・伯夷叔斉の廟を立てる詔。庚子、旱害により公卿以下に引咎責躬させ、京師の見囚の殊死以下を一等減じ鞭杖の罪を全て赦した。
- 秋七月癸丑、蕭衍の角城戍主柴慶宗が城を挙げて来降。李崇が諸蛮帥樊素安を大破。八月丙子、元英が蕭衍の将馬仙琕を義陽で破り、洛陽令に大事は面奏させる詔。乙酉、元英が義陽を攻め抜き蕭衍の冠軍将軍蔡霊恩ら十余将を擒え送った。辛卯、英はさらに衍の将を大破し三関を清めた。丁酉、元英を中山王とした。戊戌、西𦍑の宋万が戸四千を率い内附。
- 九月丙午、緣淮南北の鎮戍に秋麦春粟の播種を勧め公私を済わせる詔。諸州の徭役を蠲停し勝手な徴発を禁じる詔。甲子、中山王英が捕えた蕭衍の冠軍将軍・監司州事蔡霊恩らを才に応じて登用する詔。乙丑、蕭衍の霍州刺史田道龍・義州刺史張宗之が使者を送り内附。蠕蠕が塞を犯し左僕射源懐に討伐させた。
- 冬十月乙未、羣官の白衣による募吏を禁ずる詔。十一月戊午、漢魏の旧章に依り国学を営繕させる詔。十二月丙子、苑牧の公田を代遷の戸に分賜。己卯、羣臣に律令を議定させる詔。己亥、伊闕に行幸。閏月癸卯朔、蕭衍の行梁州事夏侯道遷が漢中を拠って来降、仮尚書邢巒を鎮西将軍としてこれに赴かせた。乙丑、驃騎大将軍髙陽王雍を司空とし、尚書令広陽王嘉に儀同三司を加えた。
正始二年(505年)
- 正月丙子、宕昌国世子梁彌博をその国王とした。鄧至国が朝貢。二月、梁州の氐が反乱し漢中の運路を絶ったが、刺史邢巒が頻りに大破。夏四月己未、城陽王鸞が薨去。乙丑、人材登用の実を求める詔。丙寅、仇池の氐が叛いたため光禄大夫楊椿を仮平西将軍として討伐させた。邢巒が統軍王足を西伐させ蕭衍の諸軍を頻破、剣閣に入り衍の輔国将軍范始男を捕らえ京師に送った。
- 五月辛巳、氐賊が率いる衆が降伏。六月己丑、先朝の勲臣の子孫の登用に配慮する詔。甲寅、蕭衍の冠軍将軍李畋らが始平郡東涪水の北に営を置き、王足がこれを逆撃し破り、冠軍将軍張湯・輔国将軍馬市寧・寧朔将軍李当・姜見祖・輔国将軍馮文豪・龍驤将軍何営之らを斬った。甲子、尚書李崇・太府卿于忠・散騎常侍游肇・諫議大夫鄧羨ら五人を大使とし外州畿内の守令の不正を糾断させた。
- 乙丑、蕭衍の冠軍将軍王景允・輔国将軍魯方逹らが竹亭を攻めたが王足が大破し輔国将軍王明達・龍驤将軍張方熾を斬った。丁卯、揚州刺史薛真度が蕭衍の将王超宗を大破し三千級を俘斬。戊辰、蕭衍の将魯方逹が新城に屯戍、足が統軍盧祖遷らを遣わし撃破、冠軍将軍楊伯仁・寧朔将軍任安定を斬った。
- 秋七月甲戌、七年間の統治を振り返り糾察と褒賞を尽くす旨の詔。戊子、王足が蕭衍軍を破り龍驤将軍喩増暉・寧朔将軍庫保夀・輔国将軍魯天恵・建武将軍王文摽を斬り涪城に迫った。壬辰、蕭衍の巴西太守庾域・冠軍将軍李畋らが応戦したが足が撃破し千数を俘斬。
- 八月壬寅、中山王英に襄沔を南討させた。庚戌、王足の統軍紀洪雅・盧祖遷らが衍軍を破り秦梁二州刺史魯方逹ら十五人を斬った。壬子、足はさらに統軍盧祖遷らに衍軍を撃破させ都督冠軍将軍梓潼県開国子王景𦙍・劉逹ら二十四将軍を斬った。甲寅、揚州が衍の将姜慶真を羊石で破る。この月、衍の沔東太守田青喜が七郡三十一県一万九十戸を率い内附。
- 九月己巳、揚州刺史元嵩が衍の湘州刺史楊公則らを撃破し数千を斬獲。冬十一月戊辰朔、武興国王楊紹先の叔父集起が謀反、光禄大夫楊椿に討伐させた。王足が涪城を囲み益州諸郡の戍で降る者は十のうち二、三、民で編籍に送られた者は五万余戸に及んだが、足はやがて軍を引いて退いた。十二月庚申、驃騎大将軍源懐に武興の反氐を討伐させる詔。
正始三年(506年)
- 正月丁卯朔、皇子が誕生し大赦天下。壬申、梁秦二州刺史邢巒が氐賊を連破し武興を克した。蕭衍の冀州刺史桓和が南青州に侵入したが州軍が撃退。秦州の民王智らが二千の衆を集め王公を自称、秦州主簿呂苟児を主に推し年号を建明とした。己卯、楊集起兄弟が相次いで降伏。
- 二月丙辰、忠言を求め嘉謀直言を報告させる詔。戊午、右衛将軍元麗らに呂苟児を討たせた。乙丑、平南将軍陳伯之が蕭衍の徐州刺史昌義之を梁城で破る。この月、衍の将蕭昞が五万の衆で淮陽を寇した。三月己巳、戎旅興盛のため諸作を罷める詔。己卯、荆州刺史趙怡・平南将軍奚康生を淮陽に赴かせた。楽浪王長命が殺人の罪で賜死・国除。戊子、皇子の名を昌と定めた。庚寅、平南将軍曲江県開国公陳伯之が梁城より南へ逃亡。
- 夏四月乙未、塩池の禁を罷める詔。甲辰、使者を北辺の酋庶に巡慰させる詔。庚戌、中山王英を征南将軍・都督揚徐二道諸軍事とし辺将を指授させた。蕭衍の江州刺史王茂先が荆州を寇し河南城に屯したため、平南将軍楊大眼に討伐させた。辛酉、これを大破し輔国将軍王花を斬り首虜二千余、河南城を進攻すると茂先は逃潰、漢水まで追撃し五城を抜いた。将軍宇文福が衍の司州を略し千余口を俘獲して帰還。
- 五月乙丑朔、義陽初附の戸を尚書に救わせる詔。丙寅、洛陽部尉に路傍の骸骨を法により棺埋させる詔。壬申、蕭衍の将張恵紹が宿豫を陥す。乙亥、衍の将蕭容が梁城を陥す。辛巳、衍の将韋叡が合肥城を陥す。壬午、尚書元遙に南討させる詔。癸未、秦隴未平のため征西将軍于勁に諸軍を節度させた。己丑、衍の将がさらに羊石・霍丘二城を陥す。
- 六月辛丑、小峴戍も陥落。乙巳、安西将軍元麗が秦の賊を大破し賊帥王智ら五人を斬り首六千を梟した。丁未、仮平南将軍奚康生が蕭衍の将張恵紹を破り徐州刺史宋黒を斬る。丁巳、尚書邢巒に徐兗を討たせた。
- 秋七月丙寅、衍の将桓和が孤山を寇し固城を陥す。庚辰、元麗が秦の賊を大破し呂苟児及びその王公三十余人を降し秦涇二州が平定。戊子、中山王英が衍の徐州刺史王伯敖を隂陵で大破し将二十五人・首虜五千余を得た。己丑、定・冀・瀛・相・并・肆六州から十万人を発し南軍を済わせる詔。
- 八月壬寅、安東将軍邢巒が蕭衍の将桓和を孤山で破り首万余級を斬り、将軍元恒が別に固城を克し冠軍将軍桓方慶を斬り、統軍畢祖杇が別に蒙山を克し龍驤将軍矯道儀らを斬り、賊及び沂水に赴いて死んだ者は四千余人、兗州が平定。己酉、平南将軍安楽王詮に後続の諸軍を督させ淮南に赴かせた。壬戌、涇秦岐涼河五州を曲赦。
- 九月癸酉、邢巒が衍軍を宿豫で大破し大将藍懐恭ら四十余人を斬り、張恵紹は宿豫を、蕭昞は淮陽を棄てて南走、数万級を追斬し徐州が平定。己丑、中山王英が衍軍を淮南で大破し、衍の中軍大将軍臨川王蕭宏・尚書右僕射柳惔・徐州刺史昌義之らは梁城を棄て淮に沿って東走、馬頭まで追撃し衍の冠軍将軍戍主朱思遠は棄城逃走、衍の将四十余人を擒え士卒五万余を斬獲、英はさらに鍾離を攻めた。髙麗国が朝貢。
- 蕭衍が三万の兵で義陽を寇したが丁酉夜に逃走、郢州刺史婁悦が追撃して破った。戊申、蠕蠕国が朝貢。己未、征虜将軍趙遐が衍の衆を灙城桑坪で大破。十一月甲子、帝は式乾殿で京兆王愉・清河王懌・広平王懐・汝南王悦に孝経を講じた。庚寅、隴右反乱鎮圧に功のあった者への報賞を検討する詔。この月、梁州で再び反乱した獠を破った。
正始四年(507年)
- 春二月丙午、吐谷渾・宕昌国が朝献。己未、勿吉国が楛矢を貢ず。三月丙子、畳伏羅国が朝貢。夏四月戊戌、鍾離で大水があり中山王英が敗績して還った。壬寅、吐谷渾・鳩磨羅・阿抜磨抜・切磨勒・悉萬斤ら諸国が朝献。
- 夏六月己丑朔、髙祖の徳を継ぎ国子学・太学・四門小学を整備する詔。丙午、蕭衍の龍驤将軍馮翊太守宇文子生ら七郡が相率いて内附。丁未、社蘭逹那羅・舎彌比羅直ら諸国が朝献。秋八月辛卯、契丹国が朝献。己亥、中山王英・齊王蕭寳夤が鍾離の敗退の罪で除名・民に落とされた。庚子、厙莫奚・宕昌・吐谷渾諸国が朝献。辛丑、敦煌の飢饉に開倉賑恤。
- 九月己未、統治の刷新の意を述べ、司空髙陽王雍を太尉・尚書令、広陽王嘉を司空とし百官の位を一級進める詔。庚申、夏州長史曹明が謀反し誅殺。甲子、斜谷の旧道を開く。疏勒・車勒・阿駒・南天竺・婆羅ら諸国が朝献。丙戌、司州の飢饉に開倉賑恤。閏月甲午、大司馬門の車馬出入を禁ずる詔。
- 冬十月丁巳、髙麗・半社・悉萬斤・可流・伽比沙・疏勒・于闐ら諸国が朝献。丁卯、皇后于氏が崩御。戊辰、疏勒国が朝貢。庚午、淮陽太守安楽が城を挙げ南叛。辛未、嚈噠・波斯・渇槃陁・渇文提・不那杖忸・杖提ら諸国が朝献。乙酉、順皇后を永泰陵に葬った。
- 十一月丁未、河南の牝馬の飼育を禁じ、碣石から剣閣まで東西七千里に二十二都尉を置く詔。己酉、阿与陁・呵羅槃陁・跋吐羅ら諸国が朝献。十二月戊午、鍾離で没落した兵士の田租三年を免除する詔。辛酉、特那杖提・莎鉢離・阿失勒・摩致鉢ら諸国が朝貢。甲子、蠕蠕・髙車の民他莫孤が部を率い来降。丁五・鉢崘・波利伏・仏胄・善乾逹ら諸国が朝貢。
永平元年(508年)
- 正月戊戌、潁川太守王神念が蕭衍のもとへ奔った。二月辛未、勿吉・南天竺国が朝献。三月戊子、皇子昌が薨去。己亥、斯羅・阿陁・比羅・阿夷叉多・婆那伽・伽師達・于闐ら諸国が朝献。丙午、前年の旱害・飢饉に使者を派遣し救済。
- 夏四月、阿伏至羅国が朝貢。五月癸未、髙麗国が朝献。辛卯、帝は旱害のため膳を減じ懸を徹した。六月壬申、獄訟を慎重に扱う詔(洛陽の旧図に依り聴訟観・冬に王公卿士自ら録問)。癸酉、髙車国が朝貢。秋七月辛卯、髙車・契丹・汗畔・罽賓ら諸国が朝献。甲午、夫人髙氏を皇后とした。乙未、獄の審理を精密にし枷杖の濫用を糾す詔。
- 八月癸亥、冀州刺史京兆王愉が州に拠り反乱。乙丑、仮尚書李平を鎮北将軍・行冀州事として討伐させた。丁卯、大赦改年。庚午、吐谷渾・厙莫奚国が朝貢。九月辛巳朔、李平が元愉を草橋で大破。丙戌、前中山王英の本封を回復。壬辰、蠕蠕国が朝貢。定州刺史安楽王詮が元愉を信都北で大破。戊戌、侍中太師彭城王勰を殺害。
- 辛丑、元愉に詿誤された冀州民の雑工役を赦し、逆党の捕獲者には別に優賞する詔。癸卯、李平が信都を克し元愉は北走、その署した冀州牧韋超・右衛将軍睦雅・尚書僕射劉子直・吏部尚書崔朏らを斬り、統軍叔孫頭が愉を捕らえて信都に送った。羣臣は愉の誅殺を請うたが帝は許さず京師に送るよう詔した。冀州が平定。
- 庚子、郢州司馬彭珍・治中督栄祖らが謀叛し蕭衍の衆を義陽に引き入れようとしたが、郢州刺史婁悦が撃退、将軍胡季智・屈祖らを義陽へ赴かせた。三関の戍主侯登・陽鳳省らが城を挙げ南叛、婁悦は籠城して固守し、中山王英に歩騎三万で赴かせた。
- 冬十月丁巳、前の北海王詳の本封を回復し王礼で葬る詔。豫州彭城の人白早生が刺史司馬悦を殺し城を拠って南叛、蕭衍が将齊苟仁ら四将を援けとして遣わしたため、尚書邢巒を行豫州事とし将軍崔暹に討伐させた。丙子、邢巒が早生及び苟仁軍を鮑口で大破。丁丑、前の宿豫戍主成安楽の子景儁が宿豫戍主厳仲賢を殺し城を挙げ南叛。
- 十一月庚寅、安東将軍楊椿に四万の衆で宿豫を攻めさせる詔。十二月己未、邢巒が懸瓠を克し白早生を斬り齊苟仁らを擒え、蕭衍の卒三千余人を捕虜とし王公以下に分賜。癸亥、中山王英が衍の将を楚城で破り衍の寧朔将軍張疑らを擒えた。郢州刺史婁悦が衍の将馬仙琕を金山で破る。壬申、漢東の蛮民一万七千戸が相率いて内附。丙子、髙麗国が朝献。この年、髙昌国王麹嘉が兄子で左衛将軍を私署する孝亮を朝貢させ内徙・救援を求めた。
永平二年(509年)
- 正月、蕭衍が王神念に南兗を寇させたため、輔国将軍長孫稚を仮平南将軍・都督として統軍邴虬ら五軍で討伐させた。丁亥、胡密・歩就磨忸・密槃・是悉萬斤・辛豆那・越抜忸ら諸国が朝献。壬辰、嚈噠薄知国が白象一頭を貢献。乙未、髙昌国が朝貢。丙申、中山王英が蕭衍の長薄戍に迫る。戊戌、宵に潰え殺傷千数。
- 丁酉、武陽関を抜き衍の雲騎将軍松滋県開国侯馬広・冠軍将軍遷陵県開国子彭瓫生・驍騎将軍当陽県開国伯徐元季ら二十六将を擒え七千余人を俘獲、黄峴西関を進攻すると衍の将馬仙琕は西関を、李元履は黄峴を棄てて逃走した。この月、涇州の沙門劉恵汪が衆を集め反乱、華州刺史奚康生に討伐させた。
- 二月乙卯、軍役頻発による武器毀損を憂い四万人分の雑仗を新造する詔。三月癸未、磨豆羅・阿曜社・蘇突闍・地伏羅ら諸国が朝献。夏四月己酉、武川鎮の飢饉に開倉賑恤。甲子、洛陽が今や天下の要衝で揚郢荆益もすべて我が有となり諸蛮も帰附している以上、掠奪された民を放還し辺境州鎮の境外侵掠を禁じ違反者は境内同様に処罰する詔。
- 五月、髙麗国が朝献。辛丑、旱害により帝は膳を減じ懸を徹し屠殺を禁断。甲辰、華林都亭に幸し死罪以下の囚徒を一等減じた。六月、髙昌国が朝献。辛亥、天下の制度を統一する詔(車書同軌)。
- 秋七月癸未、契丹国が朝献。八月丁未、鄧至国が朝献。戊申、鄧至国世子像覧蹄をその国王とし、髙昌・勿吉・厙莫奚ら諸国が朝献。九月辛巳、前の北海王の子顥を北海王に封じた。壬午、諸門闥の名を定める詔。
- 冬十月癸丑、司空広陽王嘉を司徒とした。庚午、郢州が七宝牀を献じたが詔して受け取らなかった。十一月甲申、身重の獣の屠殺を永久に禁ずる詔。己丑、帝は式乾殿で諸僧・朝臣に維摩詰経を講じた。十二月、五等諸侯の選叙の格式を定める詔。畳伏羅・弗菩提・朝陁咤波羅ら諸国が朝献。
永平三年(510年)
- 春二月丙午、髙昌・鄧至国が朝献。壬子、秦州の沙門劉光秀が謀反、州郡が捕斬。癸亥、秦州隴西の羌が鎮将趙儁を殺し反乱、州軍が討平。三月丙戌、皇子誕生、大赦天下。髙麗・吐谷渾・宕昌ら諸国が朝献。
- 夏四月、平陽郡の禽昌・襄陵二県で大疫、正月からこの月まで死者二千七百三十人。五月丁亥、冀定二州の旱害に開倉賑恤。六月壬寅、天下に遺書を重ねて求める詔。丁卯、皇子の名を詡と定めた。閏月己亥、吐谷渾・髙麗・契丹諸国が朝貢。
- 秋七月己未、吐谷渾国が朝貢。八月己卯、勿吉国が朝貢。九月壬寅、烏萇・伽秀・沙尼ら諸国が朝献。丙辰、髙車の別帥可略汗らが千七百の衆を率い内属。冬十月辛卯、中山王英が薨去。丙申、京畿内外の病者のために別に一館を立て、医署に分師で療治させ考課によって賞罰する詔(医方三十余巻を選び郷邑に頒布し治療の術を知らせる)。戊戌、髙車・亀茲・難地那竭・厙莫奚ら諸国が朝献。十二月己卯、髙麗・比沙杖国が朝献。辛巳、江陽王継が事に坐し除名。甲申、青州に髙祖廟を立てる詔。殿中侍御史王敞が謀反し誅殺。
永平四年(511年)
- 春正月丁巳、汾州の劉龍駒が衆を集め反乱、諫議大夫薛和に討伐させた。甲子、阿悦陁・不数羅国が朝献。二月壬午、青齊徐兗四州が飢饉甚だしく使者を派遣し賑恤。三月癸卯、婆比幡・彌烏萇・比地乾達ら諸国が朝献。壬戌、司徒広陽王嘉が薨去。
- 夏四月、琅邪の民王万夀が蕭衍の輔国将軍琅邪東莞二郡太守劉晰を斬り朐山を挙げて来降、徐州刺史盧昶が琅邪戍主傅文驥に守らせた。甲戌、薛和が山胡を大破。蕭衍がその鎮北将軍張稷及び馬仙琕に朐山を寇させ、盧昶に赴かせた。
- 五月己亥、代京の銅龍を遷し天淵池に置いた。丙辰、天文の学を禁ずる詔。六月乙亥、乾達・阿婆羅・達舎越伽・使密不流沙ら諸国が朝献。秋七月辛酉、吐谷渾・契丹国が朝献。八月辛未、阿婆羅逹・舎越伽・使密不流沙ら諸国が朝献。癸巳、勿吉国が楛矢を献ず。九月甲寅、蕭衍の九山戍主苟仁が戍を挙げ来降。嚈噠・朱居槃・波羅莫伽陁・移婆僕羅・俱薩羅・舎彌羅・楽陁ら諸国が朝献。
- 冬十月丁丑、婆比幡・彌烏萇・比地乾達ら諸国が朝献。十一月甲午、宕昌国が朝献。己亥、李崇・奚康生らに夀春で治兵させ朐山の寇に備えさせる詔。戊申、難地伏羅国が朝献。朐城が陥落、盧昶は大敗して還った。十二月壬申、景明二年から永平四年までの考課を通して奏聞させる詔。戊子、大羅汗婆来伽国が朝献。
延昌元年(512年)
- 正月乙巳、頻発する水旱による民の困窮に使者を派遣し開倉賑恤。戊申、疏勒国が朝献。丙辰、車騎大将軍尚書令髙肇を司徒公、光禄大夫清河王懌を司空、司州牧広平王懐を驃騎大将軍・儀同三司に進号した。
- 二月辛卯朔、渇槃陁国が朝献。甲午、州郡十一の大水に開倉賑恤、京師の穀価高騰に倉粟八十万石を出して貧民を賑した。己未、安楽王詮が薨去。夏四月、旱害により穀を食む家畜をすべて断つ詔。丁卯、遷都から二紀を経た京師の学制整備を急がせる詔(国子学は孟冬、太学四門は翌年暮春の完成を目指す)。
- 戊辰、旱害により尚書と羣司に獄訟を鞫理させる詔。河北の民を燕恒二州で就穀させ、饑民を六鎮で就穀させる詔。丁丑、帝は旱害のため膳を減じ懸を徹した。癸未、肆州の地震による死傷者に医薬を給する詔。乙酉、大赦改年。冤獄を尽くすため理訴殿・申訟車を立てる詔。
- 五月辛卯、疏勒及び髙麗国が朝献。丙午、粟のある家に饑民への貸与を命ずる詔。二月から晦日まで雨がなかった。六月壬申、大雨あり。戊寅、河南の牝馬の禁を通す。己卯、水旱による民の困窮を憂い民の資産を検校し救済させる詔。庚辰、太倉粟五十万石を出して京師及び州郡の饑民を賑わせる詔。
- 秋七月、吐谷渾・契丹国が朝献。八月壬戌、吐谷渾国が朝貢。丁亥、勿吉国が楛矢を貢ず。冬十月乙亥、皇子詡を皇太子に立てた。この月、嚈噠・于闐・髙昌及び厙莫奚ら諸国が朝献。十一月丙申、天下の父の後継者に爵一級、孝子順孫廉夫節婦を旌表する詔。十二月己巳、御史に弾劾され赦免された守宰や考課中第の者を交代させる詔。
延昌二年(513年)
- 正月戊戌、帝が申訟車で自ら冤訟を理める。髙麗国が朝献。二月丙辰朔、京師の貧民を賑恤。甲戌、六鎮の大飢饉に開倉賑贍。己卯、太尉髙陽王雍が太保に進位。庚辰、蕭衍の郁州民徐玄明らが衍の鎮北将軍青冀二州刺史張稷を斬り首を送り州を挙げて内属、前南兗州刺史樊魯に赴かせた。
- 閏二月辛丑、苑牧の地を無田の代遷民に賜う。癸卯、奴婢の解放制度を景明年間を基準に定めた。三月丙寅、髙昌国が朝献。この春、民の餓死者数万口。夏四月庚子、絹十五万匹で河南郡の饑民を賑恤。
- 五月、夀春の大水に平東将軍奚康生らを歩騎数千で赴かせた。髙麗国が朝献。六月乙酉、青州の飢饉に開倉賑恤。甲午、揚州を曲赦。辛亥、帝は申訟車で自ら冤訟を理めた。この夏、州郡十三が大水。
- 秋八月辛卯、頻発する水旱による飢饉を憂い、殺人・掠売人の首謀者や再犯の強盗を法により処決し、それ以外は死罪から徒流以下に減じる詔。庚戌、嚈噠・于闐・槃陁及び契丹・厙莫奚ら諸国が朝献。九月丙辰、貴族豪門の奢侈を厳しく制限する詔。この月、勿吉・吐谷渾・鄧至国が朝貢。冬十月、恒・肆の地震による死傷者に両河の一年租賦を免除。十二月丙戌、洛陽・河隂二県の租賦を免除。乙巳、恒肆の地震で家族を失った者に廩を賜い来年の実りに繋げる詔。髙麗国が朝献。
延昌三年(514年)
- 春二月乙未、肆州秀容郡敷城県・雁門郡原平県の山鳴地震が去年四月から止まないことを憂い、寛刑をもって答えるべしとする詔。三月、三関別将李世哲が羣蛮を大破し蕭衍の龍驤将軍文思之・文天生を斬った。
- 夏四月、青州の飢饉に、辛巳、開倉賑恤。乙巳、帝は申訟車で自ら冤訟を理めた。六月、南荆州刺史桓叔興が蕭衍軍を九山で大破し虎旅将軍新豊県開国子蔡令孫・冠軍将軍席世興・貞義将軍藍次孫を斬った。
- 秋七月丙子、勿吉国が朝貢。八月甲申、帝が朝堂で百司を考課し黜陟した。九月、吐谷渾・契丹・勿吉諸国が朝貢。冬十月庚辰、驍騎将軍馬義舒に蠕蠕を慰諭させる詔。厙莫奚国が朝貢。十一月庚戌、南天竺・佐越・費実ら諸国が朝献。
- 辛亥、司徒髙肇を大将軍・平蜀大都督とし歩騎十五万で西伐、益州刺史傅堅眼は巴北から、平南将軍羊祉は涪城から、安西将軍奚康生は綿竹から、撫軍将軍甄琛は剣閣から出兵させた。乙卯、中護軍元遥を征南将軍・東道都督とし梁楚を鎮遏させた。丁巳、幽州の沙門劉僧紹が浄居国明法王を自称し反乱、州郡が捕斬。甲戌、髙麗国が朝献。十二月庚寅、明堂の造営を詔した。
延昌四年(515年)
- 正月甲寅、帝の病が篤くなり、丁巳、式乾殿で崩御。時に三十三歳。二月甲戌朔、諡を宣武皇帝、廟号を世宗とした。甲午、景陵に葬った。
- 帝は幼くして大度あり喜怒を色に表さず、性は倹素であった。かつて髙祖が諸子の志向を観るため宝物を並べ自由に取らせたとき、京兆王愉らは競って珍玩を取ったが、帝はただ骨の如意を取っただけで、髙祖は大いにその非凡さに驚いた。庶人恂(廃太子)の不徳を見て、髙祖は彭城王勰に「この子には非常の志があると疑っていたが、今それが証された」と語り、帝を儲貳(皇太子)に立てた。
- 経史を愛好し、特に釈氏の義に長じ、講論に及ぶたびに夜を徹して疲れを忘れた。風儀に優れ容貌美しく、朝に臨んでは端厳として神のごとく、人君の器量を備えていた。
史論
- 史臣曰く、世宗は聖考(髙祖)の徳業を継ぎ、天下はその風化を待望したが、垂拱無為で辺境の帰服に対しても寛容に下を摂し、従容として果断を欠き、太和の風は衰えた。漢代の元帝・成帝・安帝・順帝の類に比すべきであろうか。