魏書卷九 帝紀九 肅宗紀

粛宗孝明皇帝(諱詡、510–528年)。世宗宣武皇帝の第二子。延昌四年(515年)、六歳で即位した。母の霊太后胡氏が摂政・臨朝し専権を振るう中、六鎮の乱をはじめ各地で反乱が相次ぎ北魏は急速に衰退した。武泰元年(528年)、十九歳で崩御。その死後まもなく尒朱栄が河陰の変を起こし北魏は事実上崩壊した。

年表(10件)

出自と生い立ち

  • 粛宗孝明皇帝、諱は詡。世宗宣武皇帝の第二子で、母は胡充華。永平三年(510年)三月丙戌、宣光殿の東北で生まれ、光が庭を照らしたという。延昌元年(512年)十月乙亥、皇太子に立てられた。

延昌四年(515年)

  • 春正月丁巳夜、皇帝の位に即いた。戊午、天下に大赦。太保・高陽王雍を西柏堂に入れて庶政を決させ、任城王澄を尚書令として百官を統べさせた。
  • 二月、司徒・高肇が京師に至り、罪により死を賜った。蕭衍の寧州刺史・任太洪が闗城に侵入したが、益州長史・成興孫がこれを撃破した。高陽王雍は太傅・太尉を進号し、清河王懌が司徒、広平王懐が司空となった。
  • 三月甲辰朔、皇太后が出家して尼となり金墉に移った。蕭衍が浮山堰で淮水を堰き止め揚・徐両州を害そうとしたため、平南将軍・楊大眼に討伐を命じた。
  • 五月、南秦州刺史・崔暹が氐族の賊を撃破し武興の囲みを解いた。六月、沙門の法慶が冀州で反乱を起こし阜城令を殺し、自ら大乗と号した。
  • 八月、領軍・于忠が矯詔して左僕射・郭祚と尚書・裴植を殺し、太傅領太尉・高陽王雍は罷免され本邸に戻された。
  • 九月乙巳、皇太后が親しく万機を覧た。詔で高祖・世宗の遺業を継ぐ意志を示した。清河王懌が太傅領太尉、広平王懐が太保領司徒、任城王澄が司空となり、于忠が尚書令、崔光が車騎大将軍となった。甲寅、征北・元遙が法慶を討ち斬った。
  • 十一月、蠕蠕(柔然)が朔方郡開国公に封じられ、蕭衍の将・趙祖悦が硤石を奪ったため、定州刺史・崔亮らに討伐を命じた。

熙平元年(516年)

  • 春正月戊辰朔、大赦し改元。荆沔都督・元志が蕭衍軍を大破した。吏部尚書・李平を鎮軍大将軍・行台に任じ硤石討伐を統括させた。
  • 二月、鎮東・蕭宝夤が淮北で蕭衍軍を大破。鎮南・崔亮、鎮軍・李平らが硤石を陥落させ、蕭衍の豫州刺史・趙祖悦を斬り首を京師に伝えた。
  • 五月、蕭衍の衡州刺史・張斉が益州を侵したため傅竪眼を刺史として討たせ、その将・任太洪を斬った。
  • 七月、傅竪眼が張斉を大破しこれを敗走させた。
  • 十二月癸巳、洛陽・河陰と諸曹の高齢者・困窮者を調査し賑恤するよう詔した。

神龜元年(518年)

  • 幽州で民死者三千七百九十九人という大饑饉があり、刺史・趙邕に開倉賑恤を命じた。二月己酉、神亀の瑞祥を理由に大赦し改元。東益州の氐族が反乱。
  • 三月辛巳、儀同三司・尚書右僕射の于忠が薨じた。南秦州の氐族が反乱し、崔襲が鎮撫した。四月丁酉、司徒・胡国珍が薨じた。江陽王継が京兆王に改封された。
  • 七月、河州民・却鉄怱が反乱し自ら水池王と称したため、行台・源子恭に討たせた。
  • 九月戊申、皇太后高氏が瑶光寺で崩じ、尼の礼で北邙に葬られた。

神龜二年(519年)

  • 二月、羽林の千余人が征西将軍・張彝の邸を焼き、その子始均を殴殺した事件があった。三月、詔により求直言。
  • 九月、皇太后が崧高山に行幸。瀛州民・劉宣明の謀反が発覚し誅された。十二月、司徒・任城王澄が薨じ、天下に大赦して淫祀を廃した。この歳、高麗王雲が死に世子の安が王位を継いだ。

正光元年(520年)

  • 七月丙子、侍中・元乂と侍中・劉騰が皇帝を奉じて皇太后を幽閉し詔を偽って発した。太傅領太尉・清河王懌を殺害し禁旅を掌握した。辛卯、帝が元服し大赦して改元、内外百官が一等進位した。
  • 八月、相州刺史・中山王熙が元乂・劉騰の誅殺を図って挙兵したが果たせず殺された。九月、蠕蠕主・阿那瓌が来奔した。

正光二年(521年)

  • 六月、右衛将軍・奚康生が禁中で元乂の殺害を図ったが果たせず、逆に元乂に殺害された。劉騰が司空公となった。

正光三年(522年)

  • 六月、蠕蠕の後主・郁久閭侯匿代が懐朔鎮に来奔した。十二月、東益・南秦の氐族が反乱し、中軍将軍・河間王琛の討伐は失敗した。

正光四年(523年)

  • 四月、蠕蠕主・阿那瓌が塞を犯し、尚書左丞・元孚を派遣して諭したが、阿那瓌は元孚を捕らえ畜牧を略奪して北へ逃げた。尚書令・李崇、元纂が騎兵十万で追討したが及ばず還った。
  • この年、牧守が碑頌を勝手に立て寺塔・邸宅を華美にすることを禁じる詔を出した。

正光五年(524年)

  • 三月、沃野鎮人・破落汗抜陵が反乱し鎮将を殺して真王元年と号した。臨淮王彧に討伐を命じたが五原で敗れ官爵を削られた。
  • 六月、秦州城人・莫折太提が反乱し秦王と自称、刺史・李彦を殺した。南秦州でも孫掩・張長命・韓祖香が反乱。太提はまもなく死に、子の念生が代わって天子を僭称し天建と号した。
  • 七月、都督・李崇率いる西討軍が白道で失利。
  • 十月、営州城人・劉安定・就徳興が反乱し刺史・李仲遵を捕らえたが、城人・王悪児が安定を斬って降った。徳興は東走し燕王と自称。胡琛の将・宿勤明達が豳・夏・北華三州を侵した。
  • 十一月、莫折天生が岐州を陥落させ都督・元志と刺史・裴芬之を捕らえた。高平人が卜朝を殺し胡琛を迎えた。

孝昌元年(525年)

  • 正月庚申、徐州刺史・元法僧が反乱し宋王を自称、蕭衍に子の景仲を送った。蕭衍は将の胡龍牙らを彭城に派遣した。安楽王鑒は彭城で元略を撃破したが油断して元法僧に敗れた。法僧は南に降った。
  • 四月、蕭衍の益州刺史・蕭淵猷の将・樊文熾らが小剣戍を囲んだが、行台・魏子建の将・淳于誕が撃退。五月、崔延伯の西討軍が涇川で敗れ戦死。
  • 六月、蕭綜が彭城で夜密かに降り、蕭衍の諸将が退いた。柔玄鎮人・杜洛周が反乱し真王と号し上谷に迫った。
  • 十月、常景・元譚が杜洛周討伐に向かうも敗れ、幽州が陥落し刺史・王延年と常景が捕らえられた。
  • この年、鮮于修禮が定州で反乱し魯興元年と号し、後に部下の葛栄に殺されて葛栄が天子を自称し斉と号した。

孝昌二年(526年)

  • 正月、都督・元譚が軍都で杜洛周に敗れた。五原の降戸・鮮于修礼が定州で反乱。
  • 九月、葛栄が広陽王淵・章武王融を博野で破り両王が戦死。葛栄は自ら天子を称し斉国・広安と号した。十一月、幽州が杜洛周に陥落し刺史・王延年と常景が捕らえられた。

孝昌三年(527年)

  • 正月、殷州刺史・崔楷が戦死し葛栄は冀州を包囲。三月、涇州で蕭宝夤・元恒芝が大敗し、岐州・豳州も相次いで賊に降った。
  • 九月、都督・源子邕・裴衍が陽平の東北・漳水の曲で葛栄と戦い戦死した。

武泰元年(528年)

  • 正月、雍州刺史・蕭宝夤が反乱を起こしたが、長孫稚が潼関を平定し、城人・侯終德らが宝夤を攻めたため宝夤は逃亡し雍州は平定された。
  • 二月、羣盗が鞏県以西を焼き劫し、武衛将軍・李神軌がこれを平定。癸丑、帝は顕陽殿で崩じた。時に年十九。皇子が即位した。
  • 三月、杜洛周が葛栄に併合された。夏四月、尒朱栄が河を渡り、庚子、皇太后と幼主が崩じた。

史論

  • 史臣曰く、魏は宣武帝以後政綱がふるわず、粛宗は幼くして即位し霊太后(胡氏)が婦人の身で専制し用人を誤り賞罰も乱れた。これにより四方に禍の端が開き、畿甸に及んで国は長く享けられなかった。これもまた衰亡の始まりであった。嗚呼。