元史演義第四十九回 尊に履き配を択び后族恩を蒙り、闕を犯し兵を称し豪宗祀を覆す (履尊擇配后族蒙恩 犯闕稱兵豪宗覆祀)
妥歡帖睦爾の即位
- 燕帖木兒の死後、太后と大臣は妥歡帖睦爾を即位させることを決め、将来は燕帖古思に位を譲るとの約束のもと、至順四年六月に上都で即位式が行われた。詔文には太祖以来の帝統と、明宗の子として迎え立てられた経緯が述べられている。
- 後にこの帝が元朝最後の皇帝となり、明軍に敗れて北へ退いた際、明太祖から「天命に従い朔漠に退いた」として「順帝」の号を贈られる。
伯顏・撒敦の台頭
- 阿魯輝帖木兒の進言(実質は伯顏の意向)により、伯顏は太師中書右丞相・監修国史など要職を兼ね、撒敦は左丞相・太傅、唐其勢は御史大夫に任じられる。
- 燕帖木兒の娘答納失里が皇后に立てられ、冊文には燕帖木兒一族への恩恵が記される。撒敦は栄王、唐其勢は太平王を襲爵し、伯顏も秦王に封じられ、燕帖木兒の遺産は絶大なものとなった。
- 武宗皇后の升祔をめぐり、伯顏は太常博士逮魯曾に諮問し、子のない真哥皇后(正后)を立てるべきとの議論が通り、真哥皇后が武宗に配祀されることとなった。
虞集の引退
- 学者虞集は御史中丞馬祖常との確執から誣告を恐れ、順帝即位後に病と称して辞職。順帝は虞集をかばうが、虞集は引退を貫き、後年臨川で没した。
天変地異と唐其勢の謀反
- 順帝の代になっても水害・旱魃・地震・彗星など凶事が続き、民間には「天雨線、民起怨、中原地、事必変」との謡が広まる。順帝は柳林への遊猟を御史台の諫言で取りやめる。
- 左丞相撒敦の死後、伯顏が独り政務を握ったことに唐其勢が不満を募らせ、密かに「天下は本来我が一族のもの」と漏らす。これを知った伯顏は右丞相の座を譲る上奏をするが許されず、唐其勢はなお不満を抱く。
- 唐其勢は句容郡王答里・諸王晃火帖木兒と結び、伯顏排除と廃立を謀るが、郯王徹徹禿の密告により発覚。伯顏は完者帖木兒らを率いて宮中に侵入した唐其勢を迎え撃ち、生け捕る。弟塔剌海も皇后(答納失里)の座の下に隠れたが引き出され、伯顏自ら斬殺した。
- 伯顏は皇后にも連座の責を問い、順帝の制止も聞かず皇后を宮外に引き出させ、後に鴆殺させた。答里・晃火帖木兒らの残党もまもなく討伐・自害に追い込まれ、謀反は鎮圧された。
- 順帝は燕帖木兒・唐其勢一派の縁者を排除する詔を発し、伯顏には答剌罕の号を賜って重用する。唐其勢の家産は没収された。
- (詩:驕り高ぶった者は必ず滅びるという教訓を詠む)
評語
- 燕帖木兒一族の滅亡は順帝が旧怨を追及したためではなく、唐其勢自らが謀反を起こした結果であり、燕帖木兒自身も予想し得なかった天道の報いといえる。子は王に封じられ、娘は皇后に立てられるという栄華を極めながら、程なくして一族誅殺・皇后鴆殺・財産没収に至ったのは、天が与えた福がそのまま禍に転じた好例である。
- 燕帖木兒の後には伯顏が続き、同じ轍を踏んで主君を脅かし皇后を害するに至った。「その興るや暴、その亡ぶや忽」との古語がまさに当てはまる。