元史演義第二十三回 日本を征し全軍尽く没し、安南を討ち両次功無し (征日本全軍盡沒  討安南兩次無功)

元、日本への通交要求

  • 世祖は高麗人趙彝の進言により日本への通交を求め、赫徳・殷弘を使者に派遣したが日本側は応じず、後の潘阜の使も六か月滞在して成果なく帰国した。
  • 高麗の内乱鎮圧を経て、再び趙良弼を派遣したが、太宰府の役人と会うのみで国王への謁見は叶わなかった。

日本の拒絶姿勢

  • 世祖は日本使者の真意を疑い、姚枢・許衡の進言で慎重な対応を取ったが、日本使者は失望して帰国。
  • 著者は、日本が北条時宗の鎖国方針の下で一切の外交を拒んでいたことが背景にあると解説する。

第一次日本遠征の失敗

  • 世祖は高麗王の娘を降嫁させ、実都・洪茶邱に命じて舟師で日本を攻めさせたが、要害を突破できず、略奪のみで撤退した。

使者殺害と第二次遠征の決定

  • 再度派遣した杜世忠らが日本側に殺害されたことに世祖は激怒し、阿嘍罕・范文虎らに十万の大軍を率いさせ再征を命じた。

弘安の役(第二次日本遠征)の壊滅

  • 総司令阿嘍罕は消極的で病死し、統率は范文虎に移った。平壺島への進軍中に暴風に見舞われ、艦隊は四散。
  • 修復の間もなく再度の颶風に遭い、范文虎ら諸将は船を捨てて逃走。残された兵は日本軍の攻撃を受け、数万が死傷・溺死し、多くが捕虜となって殺害された(生還者はわずか三名)。
  • 范文虎は敗因を部下に転嫁したが、世祖は再征を計画するも、占城の反乱により東征は一旦中止された。

占城遠征

  • 元は右丞唆都に占城攻略を命じ、唆都は激戦の末に占城軍を撃破して王都を落としたが、王子補的は山中に逃れ、後に元軍は反撃を受けて撤退を余儀なくされた。

安南遠征(第一次)

  • 世祖は皇子脱歓を鎮南王とし、安南を通って占城を攻めさせようとしたが、安南は道を貸さず抗戦。
  • 元軍は緒戦で勝利するも、安南側の抵抗文書と応酬の末、興道王率いる安南軍との全面衝突に発展した。

富良江の戦いと元軍の苦戦

  • 脱歓は富良江で安南水軍を破り城を落としたが、安南王日烜は逃亡し、成果は乏しかった。
  • 撤退時に安南軍の伏兵に遭い、毒矢による損害を受けながら辛くも渡河。李恒は負傷の末に死去し、別動隊の唆都も安南軍に包囲されて投身自殺した。

安南遠征(第二次)

  • 世祖は損害にもかかわらず再征を計画したが、劉宣の諫言もあり一旦は自重。
  • 至元二十三年、脱歓は再び大軍を率いて安南に侵攻し、緒戦は連勝したが安南王は海上に逃れて追跡は徒労に終わった。
  • 疫病と補給難に苦しみ撤退を図る元軍を、安南軍が東関で待ち伏せる形勢となり、次回に続く決戦を予感させて回が終わる。

評語

著者は、世祖が中原統一後は民を休ませるべきであったのに、なお日本・安南への外征を続けたことを批判し、これまでの征戦による犠牲の大きさを踏まえれば、常勝が続くはずはないと説く。本回冒頭の「好大喜功」の四字がすでに世祖の人物評であり、以下の記述全体に戒めの意が込められていると結ぶ。