元史演義南略に勤め志半ばに終わり、大位に拠り改元し勅を頒つ(第二 十回 勤南略齎志告終 據大位改元頒敕)
忽必烈、召還後の弁明を諫められる
- 忽必烈は勅命で北帰する途上、京兆の官吏がアラクダイル・劉太平の税務査察で相次いで罪に問われたと聞き、自分が入朝して弁明したいと憤る。
- 勧農使の姚樞は、皇弟の身で主君と争うべきではないと諫め、王邸の妃や側室をすべて朝廷へ帰すことで疑いを解くよう勧める。忽必烈はこれに従う。
- 和林でモンケ汗に対面し、姚樞の言を伝えると、モンケ汗は遠征で疲れた弟を休ませたかっただけだと涙を見せ、兄弟は言葉少なに泣き合う。
劉秉忠の登用と開平府の造営
- モンケ汗が新たな都邑を築こうとし、忽必烈は僧籍から還俗した俊才・劉秉忠を推挙する。
- 秉忠に地相を占わせ、桓州東・灤州北の龍岡を選び「開平府」と定めて造営させる。
兀良合台の西南平定と旭烈兀の西征
- 兀良合台は吐蕃から白蛮・烏蛮・鬼蛮など雲南諸部を攻め従え、羅羅斯・阿伯両国を降し、西南夷をほぼ平定。さらに南下して安南(交趾)に侵入し、国王陳日煚を敗走させて講和・歳幣を約させ撤兵する。
- 皇弟旭烈兀は和林から西域へ進み、木乃奚国(イスマーイール派の拠点)を三方から攻める。国主兀克乃丁は再三の降伏交渉を反故にしたため、旭烈兀は激怒して総攻撃をかけ、投降後に王を処刑、住民を皆殺しにして都を廃墟とした。
- 旭烈兀はさらにバグダード(八哈塔)のカリフ、ムスタアスィム(木司塔辛)を攻める。ムスタアスィムは無能で国政を臣下任せにしており、返書も不遜であったため、旭烈兀は堤を切って水攻めにし、また巨砲で城を攻めた末に降伏させる。入城後七日間にわたり約八十万人を虐殺し、財宝・后妃を奪う。ムスタアスィム自身も処刑され、その一族の多くも殺害された(末子のみ助命され蒙古女を娶り血統を残す)。
- 旭烈兀は軍を二分し、大将郭侃を東のインド方面へ、自らは西のアラビア方面へ進めた。
モンケ汗の南宋侵攻と合州攻防
- モンケ汗は西南の連戦連勝に意を強くし、南宋征服を決意。以前の和議交渉は宋側に使者を抑留されて頓挫しており、蜀方面で戦闘が続いていた。
- モンケ汗自ら南進し、嘉陵江を渡って剣門に入り、宋将楊立を討ち取り張実を捕らえる。成都も陥落させ、閬州の楊大淵は降伏。
- 合州では守将王堅が徹底抗戦。降将・晋国寺を送り込んだ内応工作は王堅に見破られて処刑され、王堅は士気を鼓舞して防戦する。蒙古軍は数か月攻めあぐね、将の汪徳臣も夜襲で重傷を負い落命する。
- モンケ汗自身も長期の陣中で病を得て、合州近郊の釣魚山で崩御。遺骸は北へ運ばれ、合州の包囲は解かれる。
モンケ汗の人物と崩御後の情勢
- モンケ汗は在位九年、寡黙で慎重、詔勅は自ら幾度も推敲するなど政務に厳格だった一方、占いを信じすぎる欠点もあった。廟号は憲宗。
- 訃報が伝わったとき、忽必烈は既に淮水を渡り黄坡まで進軍しており、諸将は北還を勧めるが、忽必烈は先帝の命を果たさず退くべきでないとし、兀良合台との挟撃も視野に南進続行を決める。
- 大将董文炳が渡江戦を志願し、忽必烈はこれを許可する。
渡江と鄂州包囲、賈似道の和議
- 董文炳兄弟は水陸から進撃し宋軍を圧倒、忽必烈本隊も渡江。臨江・瑞州を落とし鄂州を包囲。
- 南宋は賈似道を漢陽に派遣するが、似道は臆病で進軍を渋る。鄂州守将張勝の敗死など危機が深まると、似道は密かに蒙古陣営へ使者を送り臣従・歳幣を申し出る。
- 忽必烈配下の郝経は、モンケ汗の喪により宗族間の後継争いが起こりうると説き、宋と和議を結んで早く北へ帰り、皇位継承を固めるよう進言。忽必烈はこれに従い、江北割譲と歳幣を条件に撤兵する。
- 兀良合台軍も撤退の報を受けて北へ引く。賈似道はこれを大勝と偽って朝廷に報告し、宋理宗はこれを信じて彼を衛国公に封じ寵愛する。
忽必烈の即位と改元
- 燕京へ戻った忽必烈は、途上で民兵徴発が行われていることを知り、モンケ汗の遺命だとする触れ込みを疑い、これを撤回して民心を得る。
- 開平で諸王が集まり忽必烈を大汗に推戴。忽必烈は当初辞退するが、旭烈兀からも西征成功と勧進の書状が届き、これを受けてクリルタイを待たず即位を決める。
- 姚樞・廉希憲らが詔を起草し、即位の詔書(先帝の遺志を継ぎ、推戴に応じて即位した経緯を述べるもの)を発布。続いて改元の勅で年号を「中統」と定める。
- 内外の官制を整備(中書省・枢密院・御史台などを中枢に、行省・行台などを地方に配置)し、モンゴル人を長、漢人・南人を副とする体制を定める。
弟アリクブケの対立と鎮圧
- 弟アリクブケが和林で独自にクリルタイを開き大汗を自称。配下の劉太平・霍魯懐らを燕京へ送るが、廉希憲が先手を打って捕らえ獄死させる。
- 六盤の守将渾塔噶がこれに呼応して挙兵するが、希憲の独断で派兵し討伐、忽必烈も加勢して撃破。希憲は独断専行を自ら咎めるが、忽必烈はかえって褒賞する。
- 忽必烈はさらに親征しアリクブケを錫默図で撃破。アリクブケは敗走する。
遷都と国号「大元」
- 劉秉忠の進言により燕京へ遷都。在位五年で年号を中統から至元へ改める。
- のちに国号を「大元」と定める(これも劉秉忠の考案)。建国号の詔では、歴代王朝が地名や封邑にちなんで国号を定めたのに対し、『易経』の「乾元」の意を取って新たに命名した由が述べられる。
- 以後の叙述では、蒙古を「元朝」、忽必烈を廟号「世祖」と呼ぶことを断り、七言絶句で「中華は元来漢家に属したが、いかにして宋の後を異民族が継いだか。史官の慣例に倣い、事実をありのまま記す」との趣旨を詠む。
評語
本回はモンケ・忽必烈兄弟の代替わりを軸に、まず兀良合台の西南平定・旭烈兀の西域遠征という遠征譚を挟んでから、モンケの南宋侵攻決意へとつなぐ構成である。西域方面は詳しく、南方の記事は簡略にとどめたのは、『宋史』が別に演義化されるべき領域であり、また西域・南方の異民族事情は他に類書が少なく『元史』自体も簡略なため、あえて詳述して特色を示したものである。忽必烈が即位し改元・建国号したことは、後の内紛の火種を蔵しつつも、遊牧の風を文治に改め中原に君臨する基礎を築いた。原文の詔勅類をあえて多く採録したのは国粋保存の意図もある。主は漢人でなくとも文治は漢制に依ったため、宋は滅んでも文化は滅びなかった――「夷を以て夏を変ず」の逆、「夏を以て夷を変ず」とはこのことだろう。