元史演義第一十九回 姑婦朝に臨み暗に釁を生じ、兄弟命を佐け奇功を立つ (姑婦臨朝生暗釁  弟兄佐命立奇功)

窩闊台汗の晩年と崩御

  • 晩年の窩闊台は酒色に溺れ、耶律楚材の諫言も効を奏さなかった。即位十三年、遊猟の後に大病を得るが、楚材の占いと大赦により一時快復する。
  • しかし冬の狩猟後にまた深酒し、翌朝には意識を失ったまま急逝。在位十三年、享年五十六。廟号は太宗。生前は和林城・万安宮など大規模な土木を興し、後宮には皇后六人を擁した。

乃馬真后の専横

  • 第六皇后・乃馬真氏が実権を握り、寵臣・奧都剌合蠻(オドラカマン)を宰相に据えて称制する。楚材は嗣子・貴由が遠征中で未帰国のため慎重論を唱えるが押し切られる。
  • 奧都剌合蠻は西域出身の回婦・法特瑪と結託し、反対派の官僚を讒言で排斥。楚材は御璽の空紙を勝手に使わせる乃馬真后の措置に抗議するが疎まれ、以後朝廷から遠ざかる。

帖木格の東方来襲と収拾

  • 成吉思汗の弟・帖木格が権奸の専横を憂い兵を率いて西進する事件が起こる。乃馬真后は動揺し西遷まで検討するが、楚材の進言で帖木格の子を派遣して事情を質させ、事態は収拾する。
  • 貴由が西征から帰還すると乃馬真后は彼を大汗に立てようとするが、奧都剌合蠻らは拔都の帰還を待つべきと主張し引き延ばす。楚材はこの間に憂憤のうちに没する(没後、至順元年に広寧王を追封され、文正と諡された)。

貴由汗の即位と早すぎる死

  • 乃馬真后の病を機に庫里爾泰(クリルタイ)が開かれ、貴由が大汗に即位。奧都剌合蠻は投獄・処刑され、法特瑪も巫蠱の罪で処刑される。トルイ妃・唆魯禾帖尼(ソルコクタニ)が信任を得て政務に関与し始める。
  • 貴由は在位二年で西方に出向いたまま病を得て崩御(廟号定宗)。皇后・斡兀立海迷失が摂政となる。

モンケ即位への道

  • 拔都はアルタイ山で庫里爾泰を開くが、オゴデイ・グユク両家の諸王は参集を拒む。トルイ家の忽必烈・末哥らが弁論し、拔都の裁定でモンケの擁立が決まる。
  • 反対する諸王を拔都が武力を背景に説得し、斡難河で改めて大会を開いてモンケが即位。トルイは皇帝(睿宗)に追尊される。

モンケ、失烈門派を粛清

  • 即位の宴の最中、失烈門・也速蒙哥側の使者を装った一行の不審が発覚し、忙哥撤兒(マンガサル)が取り調べる。西域人・牙剌挖赤の進言(アレクサンドロスの故事)を受け、モンケは首謀者らを処刑し、関係した皇族・妃も厳しく処断する。
  • 定宗の皇后・海迷失や失烈門の生母らも投獄・処刑され、太宗(オゴデイ)系の子孫はことごとく排斥される。太宗系とトルイ系は以後不倶戴天の仇敵となる。

忽必烈の南方経略

  • 忽必烈は漠南の軍事を統括し、姚樞・許衡・廉希憲ら賢才を登用して善政を敷く。兀良合台に大理国を三方から攻めさせ、王・段智興を降す。
  • モンゴル軍はさらに吐蕃(チベット)にも進み、喇嘛教の高僧・扮底達の仲介で服属させる。忽必烈は扮底達の甥・拔思巴(パスパ)の聡明さを愛し側近に加える(後に帝師となる)。

評語

「牝鶏の晨を告げるは家の索(つき)るなり」という古語のとおり、太宗后・定宗后が相次いで臨朝したことで奸臣が権を握り、宗室の対立を招いた。乃馬真后は辛くも咎を免れたが、定宗后は非業の最期を遂げた。モンケが同族を厳しく粛清したのもやや過剰であり、後々まで一族の内紛の種となった。忽必烈が姚樞ら賢臣を用いた一方で仏教(喇嘛教)に深く傾倒し、後年その弊が及んだことも、禍福が表裏一体であることを示している。