元史演義第二十一回 襄陽を守り力五年にして屈し、厓山を覆し功成り一統す (守襄陽力屈五年  覆厓山功成一統)

元、南宋への使節と賈似道の隠蔽

  • 元世祖は郝経らを国信使として宋に派遣したが、宰相賈似道は以前の対元屈従の和議が発覚するのを恐れ、使者一行を真州に幽閉し、朝廷への報告も握りつぶした。
  • 郝経は宋帝への面会を再三求めたが、すべて賈似道に握りつぶされ、返答すらなかった。
  • 世祖は使者の帰還を待つ間に李庭芝へ問い質させたが、これも黙殺され、ついに南伐を決意し諸将へ宣戦の詔を発した。

元の南進と襄陽攻略

  • アリブケの残党討伐や李璮の反乱鎮圧などの内紛処理を経て、世祖は至元と改元し、内を平定して対外攻略に専念した。
  • 宋の劉整が賈似道に疎まれて元に降り、元軍の道案内として襄陽攻めを進言。宋の四川宣撫使呂文徳は油断して備えを怠り、襄陽守将呂文煥の警告も退けた。
  • 元軍は劉整・阿術らの指揮で襄陽を包囲し、史天沢も加わって長期包囲網を築いた。

賈似道の専横と度宗の放縦

  • 宋理宗の跡を継いだ度宗は暗愚で、賈似道を太師として厚遇し、政務を丸投げした。
  • 賈似道は西湖の葛嶺に豪邸を構えて美女を集め、蟋蟀合わせに興じるなど遊興に耽り、朝政をほとんど顧みなかった。
  • 襄陽の危急を知った度宗が問い質すと、賈似道は情報源の女官を突き止めさせて死に至らしめ、以後誰も戦況を進言しなくなった。

襄陽の陥落と忠臣たちの奮戦

  • 呂文煥は李庭芝や范文虎に救援を求めたが、范文虎は動かず、援軍は阿術に撃退された。
  • 李庭芝配下の張順・張貴は決死の突入で襄陽への補給を試みたが、張順は戦死、張貴も突囲に失敗し討ち死にした。
  • 樊城も陥落し、守将范天順・牛富は戦死。元軍は新式の砲で襄陽の外郭を破壊し、阿里海涯の説得を受けて呂文煥はついに降伏した。

南宋朝廷の混乱と元の南下

  • 襄陽・樊城の陥落で江南の防衛線が崩れ、賈似道への批判が高まるも母の死に際しては厚遇が続いた。
  • 度宗が病没し幼帝顕が即位、謝太后が摂政となるも賈似道を重用し続けた。
  • 元は伯顏を総司令として大軍を南下させ、沙洋・新郢・陽邏堡・鄂州を次々に攻略した。

賈似道軍の敗走と諸城の降伏

  • 宋は賈似道自ら十三万の兵を率いて出陣させたが、前鋒の孫虎臣は妾を連れて出陣する体たらずで敗走、夏貴も戦わずに逃走し、賈似道軍も総崩れとなった。
  • 鎮江・寧国・江陰など諸城が次々に無血開城し、賈似道は和議を求めたが伯顏に拒絶され、罷免された。
  • 建康守将は逃亡、江淮招討使汪立信は絶望して自死した。

元との交渉決裂と揚州・焦山の戦い

  • 世祖は和議の使者を送ったが、宋の守将張濡がこれを殺害し交渉は決裂。再度の使者も殺害され、元軍の怒りを買った。
  • 元は揚州に迫り、宋軍は焦山で舟を連ねて防戦したが、阿術の火攻めにより壊滅し、張世傑は辛くも逃れた。

臨安陥落と文天祥・張世傑の抵抗

  • 朝廷内では王爚・陳宜中らが対立し、和議交渉も相次いで失敗(使者の柳岳・陸秀夫はいずれも屈辱的な条件で退けられた)。
  • 賈似道は罷免後、護送官鄭虎臣に殺され、世論はこれを当然視した。
  • 元軍が臨安に迫ると、陳宜中は降伏の道を選び、伝国璽を差し出して降伏。文天祥は最後まで抗戦を主張したが拘束された。
  • 帝顕・皇太后らは北へ連行され、南宋は事実上滅亡。度宗の遺児益王・広王は逃れて福州で新帝を立て、抵抗を続けた。

厓山の戦いと南宋の滅亡

  • 幼帝は逃避行の末に病没し、弟の昺が八歳で即位。陳宜中は逃亡し、陸秀夫・張世傑が政務を支えた。
  • 元将張弘範が厓山を攻め、文天祥を捕らえた上で総攻撃をかけ、宋軍は壊滅。
  • 陸秀夫は幼帝を背負って入水、楊太后も後を追い、張世傑も嵐の中で入水して南宋は完全に滅亡した。

評語

著者は、本回が特に襄陽攻防を詳しく描いたのは、襄陽が南宋の喉元であり、その陥落が亡国に直結したためだと述べる。他の事件は簡略に留めたのは『宋史』に詳述があるためで、賈似道・陳宜中の誤国と文天祥・張世傑・陸秀夫の忠節は特に強調して書き分けたとし、善悪を明らかにするのが史家の責務であると結んでいる。