繹史秦の始皇の無道(秦始皇無道)

前巻(秦并天下)に続き、統一後の始皇帝による巡狩・封禅・土木事業・焚書坑儒・求仙など、その放恣な統治の諸相を記す。

巡狩と土木事業(史記より)

  • 二十七年、隴西・北地を巡り、信宮(極廟)や甘泉前殿を造営。馳道を天下に敷く(賈山伝に「東は燕斉、南は呉楚に至る」との記述を付す)。

泰山封禅(史記より)

  • 二十八年、鄒嶧山・泰山で封禅の儀を行う。儒生70人を集めるが、儀礼の解釈をめぐり対立し、始皇は儒生を退けて独自の儀礼を強行。泰山中腹で暴風雨に遭い、儒生たちに嘲笑されたとの逸話が付記される(『独異志』に「五松に大夫の位を封じた」話あり)。
  • 琅邪台に立てた頌徳碑文(皇帝の功業を讃える長文)を全文近く引用する。

八神信仰と方士の暗躍(史記より)

  • 斉地の八神(天主・地主・兵主など)信仰を紹介し、徐市(徐福)ら方士が「東海に三神山あり」と説いて始皇の歓心を買い、童男女数千人を率いて出海させる顛末を記す(安期生の伝説なども付記)。

天文・分野・祭祀制度(史記より)

  • 山川・鬼神への国家祭祀を整理し、雍の四畤(上帝を祀る場)を中心とする祭祀体系を記す。

会稽・琅邪の頌徳碑(史記より)

  • 三十七年、会稽に登り大禹を祀り、風俗(不貞の禁圧など)を正す旨の頌徳碑文を刻む。

泗水での周鼎捜索(史記より)

  • 彭城で周の九鼎を泗水に求めるが得られず(水経注に「龍が鼎の鎖を噛み切った」との俗説を付す)。

湘山の樹木伐採(史記より)

  • 湘君の廟に大風を阻まれ怒り、湘山の樹木をことごとく伐採させ赭土色にする逸話。

阿房宮と驪山陵の造営(史記より)

  • 咸陽の宮廷が手狭になったとして、渭水南岸に朝宮(阿房宮)を造営。前殿は東西500歩・南北50丈、上に1万人を座らせられる規模とされる。
  • 隠宮の徒刑者70余万人を動員し、阿房宮と驪山陵を並行して造営したと記す(三輔黄図・拾遺記などの伝承も多数付載)。

優旃の諷諫(史記より)

  • 道化芸人・優旃が、雨に濡れる衛兵への配慮を機知で促したり、苑囿の拡張計画を皮肉って撤回させたりする逸話を収める。

烏氏倮と巴蜀寡婦清(史記より)

  • 商人ながら財力で封君に准ぜられた烏氏倮、貞節と事業経営で始皇に「懐清台」を築かせた巴蜀の寡婦清の話を、「富をもって万乗に礼を抗す」例として引く。

盧生らの上書と焚書(史記より)

  • 方士・盧生が「人主が居所を隠せば不死の薬が得られる」と説き、始皇はこれに従って行幸先を秘匿するようになる。
  • 丞相李斯の建議により、秦紀・医薬・卜筮・農書以外の書物を焼く「焚書」の令が下る。淳于越の封建復古論への反駁として発せられたことを記す。

坑儒(史記・説苑より)

  • 盧生・侯生ら方士が始皇の専制ぶり(独断専行、刑殺を威とする、諫言を許さない)を批判して逃亡。怒った始皇は関係する諸生460余人を生き埋めにする。
  • 説苑には、いったん捕らえられた侯生が始皇に痛烈な諫言(堯の質素・丹朱の奢侈との対比、始皇の奢侈が「丹朱の千倍、桀紂の十倍」であるとの弾劾)を行い、始皇が黙って赦した異伝を収める。
  • 長子・扶蘇が諫言し、上郡に左遷され蒙恬の監軍となる。

禅譲論をめぐる問答

  • 始皇が群臣に「五帝の禅譲・三王の世襲、いずれを取るべきか」と問い、「天下を官(賢者に譲る)としたい」と述べるが、博士・鮑白令之に「陛下の行いは桀紂の道であり、五帝に比すべくもない」と諭され、面目を失う逸話を記す。

隕石と讖言(史記より)

  • 三十六年、隕石に「始皇帝死して地分かる」と刻まれる事件が起き、始皇は周辺住民を皆殺しにして石を焼き捨てる。
  • 使者が滈池君への言伝を託されて「今年、祖竜死す」と告げられ璧を残して消えた怪異譚も記す。

始皇の崩御(史記より)

  • 三十七年、巡幸中の沙丘平台で崩御。死を忌む始皇の意向により、生前は後継が定まらなかった。

驪山陵の埋葬(史記より)

  • 水銀で百川江海を模した豪華な副葬、後宮の子のない妃を殉死させたこと、工匠を陵内に閉じ込めて口封じしたことなど、驪山陵の壮大さと非情さを記す。

二世皇帝の即位儀礼(史記より)

  • 二世皇帝元年、始皇廟を「極廟」として尊崇する議が行われ、二世も先帝の東巡の跡を継いで郡県を巡幸し、始皇の刻石に自らの詔書を追刻させる(鉄権銘文も付載)。