繹史楚の懐王、秦に客死する(楚懐王客死于秦)

  • 履歴: 楚の懐王(在位前328年頃-前296年)。斉・秦の間で連衡・合従を繰り返した末、秦に騙されて抑留され、そのまま秦で客死した。子の頃襄王が跡を継ぐ。

斉との連衡か秦との連衡かの選択

  • (史記より)懐王二十年、斉の湣王は楚に書を送り、秦の恵王死後に張儀が去り樗里疾・公孫衍が用いられたことで韓魏が秦に従い楚も孤立すると警告し、斉と合従して秦に当たるよう勧めた。楚の重臣昭雎は「秦に和する道より、斉韓と結び秦の重臣樗里疾を重んじさせる方が得策」と説き、懐王はこれに従って斉と結んだ。
  • 以後、懐王二十四年に斉から秦へ寝返り、秦昭王と黄棘で盟約して上庸を得たが、二十六年には斉韓魏が楚を伐ち、楚は太子を秦に人質に出して救援を仰いだ。二十七年、秦にいた太子が秦の大夫を殺して逃げ帰った。
  • 二十八年、秦は斉韓魏と共に楚を攻め、将軍唐眛を殺し重丘を奪った。

秦の連続攻勢と懐王抑留

  • (史記より)秦昭王八年(懐王二十八年)、秦将芊戎と斉韓魏の連合軍が楚の方城を攻め唐眛を斬った。
  • (呂氏春秋より)斉将章子と楚将唐蔑(唐眛)が対陣した際、章子は水路の浅深を探らせて夜襲し唐蔑を討ち取った経緯が語られる。
  • (戦国策より)四国が楚を伐った際、昭雎が秦との関係を保ちつつ戦う策を進言した。
  • (史記より)秦昭王九年、秦将奐が楚の八城を取り将軍景缺を殺した。懐王二十九年、秦は楚軍二万を殺し景缺を殺した。懐王は太子を斉に質に出して和を求めた。三十年、秦はさらに八城を取り、秦昭王は懐王を武関での会見に誘った。昭雎は行くべきでないと諫めたが、子の子蘭が行くよう勧め、懐王は赴いて秦に抑留され、割地を要求されて拒んだため留め置かれた。
  • (戦国策より)秦が懐王を抑留した際、游騰は秦王に「盟約して帰せば義に叶う」と説いた。孟嘗君のもとで公孫弘が秦昭王を訪ね、孟嘗君の人物を弁じた問答が記される。

山東諸国の合従を説く長弁(三晋・秦を巡る形勢論)

  • (戦国策より)ある遊説家が趙王に対し、「三晋が合すれば秦は弱く、離れれば秦は強い」との大局観を説き、秦が燕・趙・梁・韓・楚のいずれとも矛先を変えて互いに争わせている実情を指摘した。さらに、秦が近年楚を攻めては和睦を繰り返し、山東諸国の隙を衝いて版図を広げている経緯を述べ、三晋が結束して韓・梁の西辺を守るべきだと説いた。
  • 同様の趣旨で韓王にも、秦が梁を攻め落とした後には韓に迫るとして、山東諸国が結束して秦に当たるべきことを説いた。
  • 続けて陳軫(と伝わる)が斉王にも、秦のみが山東を脅かす存在であることを説き、天下が争って秦に付くことの愚を諭した。この一連の弁は複数の国王に向けてほぼ同内容が繰り返し説かれており、後段(0243・0244)へ続く。