繹史秦、巴蜀を併合する(秦并巴蜀)

蜀討伐をめぐる評議

  • (史記より)秦恵文王後九年、苴・蜀が互いに攻め合い秦に救援を求め、同時に韓も秦の隙を突いて侵攻する構えを見せたため、恵王は韓と蜀のいずれを先に討つべきか決めかねていた。
  • (戦国策より)司馬錯と張儀が恵王の前で論争する。張儀は「魏楚と結んで韓を攻め、周を脅して九鼎を得、天子を挟んで天下に号令すべき(王業)」と説いたが、司馬錯は「蜀は戎狄の地に過ぎぬが、その乱に乗じて討てば、国土と財を得て民を富ませ、しかも暴虐の名を負わぬ利がある。一方、韓を攻め周の天子を脅すのは不義の名を負うばかりで利益は不確かだ」と反論した。恵王は司馬錯の策を採り、十ヶ月で蜀を平定、蜀主を侯に落とし陳荘を相として置いた。以後、蜀を得た秦は益々富強となり諸侯を軽んじるに至った。

蜀にまつわる伝説(華陽国志)

  • (華陽国志より)周顕王の頃、蜀王は褒漢の地を有し、秦恵王と狩猟の折に出会った。恵王が贈った金の器の返礼として蜀王が贈った珍玩が土に化けたため、群臣は「天が蜀の地を秦に与える兆し」と喜び、恵王は黄金を排泄すると偽った五頭の石牛を作り、蜀の五人の力士(五丁)に引かせて道を開かせた(後に金を出さぬと知り送り返し、双方が互いを揶揄した逸話も伝わる)。
  • 武都山の精である美女を妃に迎えた蜀王が、水土に合わず病没した彼女のために盛大な墓を築いた話、周顕王二十二年、秦の美女攻勢に感じて蜀王が入朝した話、秦が五人の美女を蜀に嫁がせた際、迎えに出た蜀の五丁力士が大蛇を引き出そうとして山崩れに遭い、五丁も秦の五女も共に圧死した話(蜀王はこれを悼み思妻台を築いた)などの伝説を記す。
  • 蜀王は弟葭萌を漢中に苴侯として封じたが、苴侯が蜀の仇敵巴と誼を通じたため蜀王はこれを討ち、苴侯は巴に奔り秦に救援を求めた。秦では楚討伐か蜀討伐かで議論となり、司馬錯・中尉田真黄は「蜀は富み、その水運は楚にも通じ、蜀を得れば楚も制し得る」と説いて恵王を動かした。周慎王五年秋、張儀・司馬錯・都尉墨らが石牛道より蜀を攻め、蜀王は葭萌で敗死、蜀は同年冬に平定され、苴・巴も併せて秦に降った。
  • 周赧王元年、秦恵王は子の通国を蜀侯とし陳壮を相、張若を蜀国守に置き秦の民一万家を移住させた。後に陳壮の反乱、蜀侯の交代(惲、綰)、継母による毒殺未遂事件(毒を盛られた供物を試食した近臣が死に、恵王が惲に自裁を命じた顛末)、綰の謀反疑惑による誅殺と郡県制への移行など、蜀統治の変遷が詳述される。

白虎退治と夷人の盟約

  • (後漢書より)秦昭襄王の代、秦蜀巴漢の境を荒らした白虎を、巴郡閬中の夷人が白竹の弩で射殺した功により、昭王は租税・人頭税の免除や贖罪の特権を含む盟約を夷人と結んだ。

李冰の治水

  • (華陽国志より)秦孝文王の代、蜀守李冰は天文地理に通じ、岷山を「天彭門」と称して祠を建て、江水を分流させて郫江・検江を通し灌漑を行い、蜀の沃野を「陸海」と呼ばれるまでに豊かにした。石犀を作って水害を鎮め、水難の多い難所を開削し、水神との対決伝説(水経注に見える、江神への人身供養の慣習を李冰が廃した故事)も伝わる。