繹史燕王噲、国を譲った禍(燕噲讓國之禍)

蘇代・陳翠の斉燕外交

  • (戦国策より)蘇代は斉王への謁見に先立ち淳于髠に「駿馬も伯楽が一目置けば十倍の値がつく」との譬えで仲介を頼み、斉王への謁見を実現させた。
  • (戦国策より)陳翠は斉燕の同盟を成立させ、燕王の弟を斉への人質とする約束を取り付けたが、太后が激怒した。陳翠は「人主は布衣の民以上に我が子を愛さぬもの。太后・王の在世中でなければ公子は封じられぬ」と説き、太后を納得させた。

子之への譲位

  • (史記より)燕王噲の代、蘇秦の死後、その関係者子之が燕の相として実権を握った。蘇代は斉の使者として燕に赴き「斉王は臣下を信用せぬから覇者になれぬ」とわざと述べ、燕王に子之を全面的に信任させるよう仕向けた。鹿毛壽は「堯が許由に天下を譲ろうとした故事(実際には天下を失わなかった)」を引いて燕王に国を子之へ譲るよう勧め、燕王はこれに従った。さらに別の者が「禹が益に位を譲ると見せかけつつ実権を啓に握らせた故事」を引き、燕王は三百石以上の官吏の印璽をことごとく子之に渡し、子之は南面して王事を執り、老いた燕王は政治に関わらなくなった。
  • (韓非子より)同様の経緯を伝え、蘇代が桓公・管仲の故事(一人の臣に全権を委ねてこそ覇業を成す)を引いて燕王を説いた次第を記す。
  • (史記・韓非子より)隠者潘寿は燕王に「子之が益(禹の故事における簒奪者)のようになる」と警告したが、燕王はかえってこれを子之への権限集中を進める理由と誤解し、太子側の人間を朝廷から一掃、子之の権勢はさらに強まった。呉章の「主君は佯りに人を憎み愛すべきで、一度真に愛憎を示せば取り返しがつかぬ」との論も付記される。子之が白馬の逃走を装って側近の忠誠を試した逸話も伝わる。

燕の内乱と斉の侵攻

  • (史記より)即位三年、国内は大乱し、将軍市被と太子平が子之討伐を謀った。斉湣王は太子平に加勢を約し、太子は兵を集めて子之を攻めたが敗れ、市被は逆に太子平を攻めて戦死、内乱は数ヶ月に及び死者数万に上った。孟軻(孟子)は斉王に「今こそ燕を討つ好機」と勧め、斉は章子を将として五都の兵を発し燕を攻め、燕君噲は死し、斉は大勝して子之も滅んだ(醢刑に処されたとの異伝もある)。
  • (史記より)趙武霊王十二年、王は韓にいた公子職を召して燕王に立てたが、二年後には燕人が共に太子平を立てて燕昭王としたともいう。

燕存続をめぐる諸国の駆け引き

  • (戦国策より)田臣思は斉王に「韓を助けず、燕の内紛につけこんで攻めよ」と説き、斉は三十日で燕を攻略した。
  • (戦国策より)斉が燕を破ると、趙は燕の存続を図り、楽毅は趙王に「河東を斉に与えて燕地と交換させれば、燕趙は争わず、天下は斉を憎んで趙に付く」と献策、趙王はこれを容れた。楚・魏も燕を存続させようと六城を条件に斉討伐に加わろうとしたが、張儀はこの連合を切り崩す策を魏に授け、計画は頓挫した。
  • (戦国策より)燕の使者宮他が魏に留め置かれた際、客が「乱に乗じて地や宝を得るのが常道」と魏王を説き、宮他は面会を許された。
  • (戦国策より)ある者(時代不詳)が斉のために趙王に「斉に付けば燕韓魏を意のままにでき、秦さえ孤立させられる」と説く上書を記す。