繹史周、東西に分かれる(両周の争い)(周分東西(兩周之爭附))
東西周の成立
- (史記より)考王は弟を河南に封じ桓公とし、周公の官職を継がせた。桓公の後、威公、恵公と続き、恵公は末子を鞏に封じて東周恵公とした。
甯越の刻苦勉励
- (呂氏春秋より)中牟の貧農甯越は耕作の労苦を逃れるため学問を志し、友の勧める三十年を十年に縮めるべく、人が休む時も休まず学び続け、十五年で周威公の師となった。
士を貴ぶべき理由
- (説苑より)周威公が甯子(甯越)に人材登用の道を問うと、甯子は「困窮した者を通達させ、亡命者を留め、廃された者を起用すれば四方の士が集まる」と答え、楚が伍子胥ら四人の士を疎んじて敵国に奔らせた結果、城濮・鄢陵などの戦いで大敗した例を挙げ、士の存亡が国の存亡に直結すると説いた。
田開之の養生論
- (荘子より)田開之は周威公に、師の言葉「羊飼いが遅れた羊を鞭打つように、生を養う者は自らの弱点に注意すべし」を伝え、内を養い外の危険を顧みず虎に食われた単豹と、外見ばかり整え内側の病で死んだ張毅の対比で、偏った養生の戒めを説いた。
屠黍の亡国予言
- (呂氏春秋より)晋の太史屠黍は晋の乱を見て周に帰り、威公の問いに「天の異変よりも人事の不義・隣国との不和・賢良の不用こそ亡国の兆し」として晋の滅亡を予言し、後に的中した。続けて男女の別を失った風俗を理由に中山の滅亡も予言し的中させた。さらに問われて「次は周(君)自身」と答え、威公は驚いて賢者を求め諫臣を得たが、屠黍は「それでも君の代限りであろう」と述べた。果たして威公薨去後、九ヶ月葬られぬまま周は東西に分裂した。
周の分裂
- (史記より)趙成侯が韓と共に周を攻め、周を東西二国に分けたとする。王赧の代には東西周がそれぞれ治め、王は西周に遷都した。
東西周をめぐる駆け引き
- (戦国策より)西周の武公の太子が死に五人の庶子が並び立つ中、司馬翦は楚王に公子咎を太子に推すよう働きかけ、左成の助言による揺さぶりを経て、結局公子咎が太子となった。
- (戦国策より)司寇布は周最に、独り信頼されることがかえって疑いを招くとし、名剣・宝珠を売る商人が値を惜しんで信用を失った譬えを引いて忠告した。
- (戦国策より)東西周の抗争では、韓が西周を助けようとした際「西周の宝器を出させ徳とせよ」と説く策、東西周と楚韓の間で宝物を担保にした駆け引き、東周が稲作のため西周に水利を求めた際、蘇子が「水を与えれば西周は東周の民の生殺与奪を握れる」と両国から利を得た策など、様々な策謀が記される。
- (戦国策より)西周から東周へ亡命した宫他が機密を漏らした際、馮雎は偽の書簡で宫他を陥れて処刑させた。
- (戦国策より)周相呂倉が讒言で罷免されかけた際、ある者が「非難は臣下が引き受け誉れは主君に帰すべき」との論(宋君の築台、子罕の司空辞任、斉桓公と管仲の三帰の故事)を説き、周文君を諭したが、結局呂倉は罷免を免れなかった。
- (戦国策より)杜赫は「網は鳥の多い所と少ない所の間に張るべき」との譬えで、有力者ではなく将来性ある窮士に投資すべきと周君に説いた。
- (呂氏春秋より)杜赫は周昭文君に「安んじようとしない政策こそが真に国を安んじる」との逆説的な統治論を説いた。
- (戦国策より)公子㳫が申向の推挙で相となったことを恥じた際、申向は年齢の逆説的な問答でこれをかわした。
- (戦国策より)温の人が周に入国しようとして「客」扱いを拒み、「普天の下、王土に非ざるは莫し」の詩句を引いて自らも天子の臣であると主張し、通行を許された逸話を記す。