- 履歴: 田嬰は斉威王の末子で宣王の庶弟。威王の代から重用され、宣王九年に斉の相となる。宣王の死後、湣王三年に薛(靖郭君)に封じられた。
玉珥の計
- (戦国策・韓非子より)斉王の夫人が死去し、寵愛する側室七人(韓非子では十人)のうち誰を後継の夫人にすべきか探るため、薛公(田嬰)は玉の耳飾りを献上、そのうち一つだけを特に美しく作った。翌日、その美しい耳飾りを着けている者を見極め、王にその者を夫人に立てるよう勧めた。
権勢と人情
- (韓非子より)靖郭君は「古い友人と長く語り合えばその友を富ませ、側近を大切に扱えばその側近も重んじられる」という小さな縁でも人を富貴にできることを示し、まして官吏の権勢の力の大きさを説いた。
会計監査の顛末
- (戦国策・韓非子より)ある者が王に「一年分の会計を数日で自ら聴くべき」と勧め、田嬰はこれに乗じて煩雑な帳簿計算を王に押し付けた。王は最初は熱心に聴いたが疲れて眠り込み、その隙に官吏が不正な帳簿を書き換えてしまい、かえって乱の元となった。
成驩の諫言
- (戦国策より)成驩は斉王に「王は薛公(田嬰)に対しては仁に過ぎ、田氏一族に対しては不忍(厳しさに欠ける)に過ぎる」と諌めた。薛公への過度の温情は大臣の権威を弱め、一族への甘さは国内の法を乱すとして、これを亡国の兆しと警告した。
楚への外交
- (戦国策より)田嬰が薛に封じられると聞いた楚王が激怒し斉を伐とうとした際、公孫閈は楚王に「魯・宋のような小国は楚に服従するが斉のような大国はしない。斉が領地を割いて田嬰を封じるのはむしろ斉を弱めることになる」と説き、楚は出兵を思い止まった。
海大魚の譬え
- (戦国策・韓非子より)靖郭君が薛に城壁を築こうとした際、ある客が「魚は水を離れれば蟻にすら食われる。斉こそ君の水であり、斉があってこその薛だ。薛の城壁を天まで高くしても無益である」と諌め、靖郭君は築城を中止した。
齊貌辯への信義
- (戦国策より)靖郭君は多くの欠点を持つ齊貌辯を寵愛し、家臣の諫言にも耳を貸さなかった。威王の死後、宣王が即位すると靖郭君は宣王との不仲から薛に退いたが、齊貌辯は死を覚悟で宣王に謁見し、かつて靖郭君が太子(後の宣王)の廃立を勧められても拒んだこと、薛の地を大領土と交換する話も断ったことを明かした。宣王は感涙し靖郭君を都に呼び戻して相に任じたという。